しかしこのときバルチック艦隊は東北方向に進行していたため、なまじっかこの
情報は遅く着いて日本にとっては幸運であった。東北行きということは、バルチッ
ク艦隊が北上するコースと思われるからであり、この時点では軍令部も連合艦
隊司令部も、バルチック艦隊の進行方向を定められずに右往左往していた時
期であったからである。もしこの報告が早くついていれば、連合艦隊は必ずや
北海道方面に向かう決断をしていたからである。
なんとなれば、連合艦隊は1905/5/25には、翌日(5/26)には北進することを決意
していたからである。「日露戦争 5」児島襄によれば、次のような電報を東京の
軍令部に送っていると言う。
「明日正午まで当方面に敵影を見ざれば、当隊は、明夕刻より北海方面に移動す」
しかし東京の軍令部は、バルチック艦隊に朝鮮海峡を通過されることを恐れ、連
合艦隊が移動することに対して、慎重に考慮するよう盛んに要請していた。
そんな折に、上海に派遣していた軍の出先から至急報が届く。5/26,午前00:05。
「露国義勇艦隊3隻、運送船5隻、25日夕刻、上海入港」
続いて上海総領事からも詳報が入り、運送船には石炭が満載されていると言
う。実際には運送船6隻と護送巡洋艦2隻で、5/25にバルチック艦隊から予定通
り分離されたものであった。
このためバルチック艦隊の主力は上海東方、九州の南方にいることが推測さ
れた。しかも石炭を満載していたと言うことは、この運送船がバルチック艦隊と
行動を共にしていたことを意味していた。そのため東郷大将は、北進延期を決
断している。
誠に以って東郷はついていた。運がよいという理由で、連合艦隊の司令長官に
任命されただけのことはあったのである。東郷平八郎を連合艦隊司令長官に任
命したのは、海軍大臣であった山本権兵衛であった。Wikipediaによると、山本
は軍務局長そして海軍次官時代に、海軍の大規模な行政改革をやってのけ、
日本海軍の育成に最も貢献している。そしてその山本の能力を存分に発揮させ
たのが、彼の上司であった海軍大臣の西郷従道であった。山本は海上権という
新概念を確立させ、陸軍首脳にもレクチャーしている。そのため日清戦争での
陸海軍の連携は比較的にスムーズに行ったとも、Wikipediaには記載されてい
るが、海上権とは今で言う「制海権」のことであろうか。
1901年に新設された舞鶴鎮守府初代司令長官であった東郷平八郎は
1903(M36)/12に、山本権兵衛に呼び戻されて、連合艦隊(兼第1艦隊)司令長
官に就任しているが、「なぜ東郷か」と明治天皇に聞かれて時に、山本は「東郷
は運にいい男ですから」と奏したと言われている。
また、艦上での食事の改良にも取り組んだともWikipediaには述べられている
が、それによるとカレーライスや肉じゃがなどの栄養価に高い献立を奨励し、脚
気の撲滅に貢献したと言う。このようなことも含めハードもソフトも、だから、日本
海軍は山本が作った、といわれる所以なのであろう。明治と言う時代は優秀で
あった。大震災と原発事故に見舞われている現在の日本にも、偉人の輩出を期
待したいものである。少なくとも今の民主党には、全く期待できない。こいつらの
拠って立つところが、日本から離れている。だから全くあてにならないのである。
鳩山や管の馬鹿面を見ると、虫酸(むしず)が走る、というものである。
(続く)