バルチック艦隊は1905/4/14にフランス領インドシナのカムラン湾に入港、ここ
で第3太平洋艦隊と5/9に合流している。そして5/14、カムラン湾を出港し、
5/23、10時ごろ宮古島へ雑貨を運んでいる琉球帆船「宮城丸」に、望見されて
いる。この件は2011/6/7のNO.87で述べているが、しかしこの事実はすぐには
連合艦隊には届いていない。
そして日本の哨戒網に引っかかったのは、宮城丸に望見された日から遅れるこ
と4日、1905/5/27であった。仮装巡洋艦信濃丸は五島列島と韓国の済州島の
間で北東に向かって哨戒活動中であったが、5/27の03:00前にその左舷に灯火
を発見する。そして臨検のため後方より相手の左舷に回り込むと、更に左舷方
向に多数の軍艦と煤煙を発見し、午前4:45に「敵艦隊らしき煤煙見ゆ」と発信
する。これがバルチック艦隊発見の第一報である。
この続きは次の機会に譲り、今は1905/4/21に戻ってみたい。
「日露戦争 6」児島襄によると日本では、桂太郎首相が緊急で「講和条件」を決
定するための閣議を召集している。
その議案の冒頭には次のように記載されていると言う。
「そもそも帝国が安危存亡を賭して露国と干戈を交うるに至りたるは、その目的
に於いて、満韓の保全を維持し極東永遠の平和を確立するに在り」
即ち、満州と大韓帝国をロシアの毒牙から開放すると言うことであった。ここで
戦わなければ、朝鮮はこの世から消え去り、日本もロシアに蹂躙されていたかも
しれない。しかも開放してそれを定着させる必要があった。ロシアは奉天を根拠
地として大軍を常駐させ、朝鮮半島を虎視眈々と狙っていたため、日本は、ロシ
アに満州と韓国から手を引かせるために戦いを挑んだのであった。そして曲がり
なりにも満州では、勝ち続けている。そろそろ潮時である。講和のために絶対条
件を次の三つとして、早期に講和談判に持ち込む算段であった。これは当時の
常識からすると、とてつもなく譲歩した内容であった、と言う。
日本はそれほど切羽詰っていたと言うことであろう。
ロシア陸軍は総数200万人、動員可能人員は更にふくらみその倍とも言われて
いた。そして満州には100万人が動員されていた。然るに日本陸軍は、近衛師
団と第1師団から第12師団の合わせて13個師団しかなかったのである。1師
団約2万人といわれているので、単純に掛け算すると総数26万人でしかない。
これでは満州の奥地に引っ張り込まれたら、日本軍はひとたまりも無かったこと
であろう。
だから明石元二郎大佐もロシア社会を混乱に陥れるために、必死だったので
ある。従ってニコライ2世も、よもやロシアが日本に負けるとは思ってもいなかっ
たために、日本が「満韓交換論」を提案しても、その歯牙にも掛けなかったので
ある('11/01/10,NO52参照のこと)。事実1904/6/12に極東視察の途中に日本
を訪問したロシア陸軍大臣クロパトキンは、帰国後「日本兵3人にロシア兵1人
で間に合う。日本との戦争は、単に軍事的散歩に過ぎない。」と語り、日本の戦
力を問題にしていなかった、と言う。
(日露戦争 概説1 明治37年2月9日~明治38年9月5日、http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai2/kindai-nitiro1.html による。)
(続く)