日韓併合100年(98)

東郷大将率いる第1戦隊は、ロシア戦艦「ニコライ一世」「アリョール」を引率

して、
19:45に戦場を離れた。上村中将率いる第2戦隊は、巡洋艦「磐手」と

「八雲」が装甲海防艦「ウシャコフ」の追跡に派遣されているため、「セニャー

ウィン」の捕獲作業が遅れた。そして巡洋艦「ドンスコイ」への攻撃も終了し

21:35、第2戦隊も装甲海防艦「アブラクシン」「セニャーウィン」を率いて、

戦場を後にした。---
日本海海戦」の閉幕であった。

  

5/3009:00第2戦隊が「アブラクシン」と「セニャーウィン」を引き連れて佐世保

に入港する

第1戦隊は、浸水の激しい「アリョール」を舞鶴に回航させたため遅くなり、

5/3010:30佐世保に「ニコライ一世」を引率して入港した

 

そして、重傷のロジェストヴェンスキー中将を佐世保海軍病院に入院させ、ネボ

ガトフ少将は佐世保海兵団に収容する。

 

そして総合戦績を次のように報告する。

撃沈=戦艦五→六、巡洋艦五、装甲海防艦一、仮装巡洋艦一、工作船一、

駆逐艦


捕獲=戦艦二、装甲海防艦二、駆逐艦

 

このため、軍令部にも海軍省にも大歓声が上がり続けた、と日露戦争7」(児

島襄)
は述べている。


そして戦艦「シソイ・ウェリーキー」の撃沈が確認され、戦艦六隻の撃沈となり、


38隻中合計22隻の撃沈・捕獲大戦果となった。そして海軍省は、この戦

果集計を8カ国公館に通報した。

 

ロシア戦艦の8隻は全て、撃沈か捕獲されている。「全世界--が、日本側の

戦果の発表を知ると、わきたった。誰もが、ちょうど百年前の「
トラファルガー岬

沖海戦
」を想起した」、と日露戦争7」(児島襄)は述べている。

 

トラファルガー沖海戦は、1805/10/21にスペインのトラファルガー岬の沖で戦

われた、英国と仏・西(スペイン)連合艦隊との海戦であり、ナポレオン戦争最大

の海戦であった。


当時イギリスは海上を封鎖し、ナポレオンのイギリス本土上陸を阻止していた

が、ナポレオンはフランス・スペイン
連合艦隊33隻で、ホレーショ・ネルソン

提督
率いるイギリス艦隊31隻に戦いを挑んだものであった。ネルソンは、仏・

西連合艦隊の列に二列で突っ込むと言う戦法で仏・西艦隊の分断を図り、撃沈

1隻、捕獲破壊18隻と言う大勝利をもたらした。しかしネルソン提督は仏狙撃兵

に銃撃され「私は義務を果たした」と言って息を引き取っている。このトラファル

ガー沖海戦では、ナポレオン戦争の帰趨を決するまでには至らなかった。ナポレ

オン戦争の帰趨は、
1815年のワーテルローの戦いでナポレオンが敗れた結果、

決している。だから、
日本海海戦勝利は、トラファルガー沖海戦よりも、ずっ

とずっと重大な意味を持ちトラファルガーなどとは比べられないほど大きいもの

なのである、と小生は確信している。トラファルガー岬はジブラルタル海峡を出た

ところの大西洋に面するスペイン南端にある岬である。

 

ネルソンの戦果は、19/33=58%であったが、東郷の戦果は、武装解除艦も

含めると33/38=
86%でネルソンの五割り増しの成果であり、トラファルガー

沖海戦と比べられては、東郷大将や日本海軍がかわいそうである。

ちなみに、「日本海海戦」とは東郷大将が命名したものである。

(続く)