Theodore Roosevelt(セオドア・ルーズベルト)は、1901/9/14、ウィリアム
・マッキンリー大統領が暗殺されたことをうけて、42才と10か月と言う若さで副大
統領から大統領に就任している。そのため第26代大統領となったT.ルーズベ
ルトの29期めの任期は、1901/9/14~1905/3/4までであった。
そして30期の1905/3/4~1909/3/4の任期中の1905/2/22~3/10に奉天会戦が
戦われている。大統領はこの奉天戦で日露戦争の一定の目途が付いたものと
感じていた。まだ日本海海戦(5/27~28)が戦われていないが、その前に講和
が成立すればそれなりに有意義ではないかと考えていた。しかも、自分の仲介
で日露の和平が実現すれば自己の指導力も急進し、しかも次期大統領選挙に
も有利と考えていた。そのため3月中頃には日露両政府へ和平の斡旋を試みた
のであるが、状況が状況であったため、両国より、ものの見事に拒絶されてい
る。満州ではクロパトキンに代わったリネウィッチが意気軒昂であり、バルチック
艦隊はノシベを3/16に出港したばかりであった。日本軍はまだロシア領への進
軍は出来ていない。'11/6/13,NO.91参照のこと。
そのため大統領は日露の艦隊戦がこの戦争の勝敗を決するものと考え、この
艦隊決戦を待って本格的な仲介をすることにした。それと言うのも、「日本が講
和の意向を持っていることをロシアが知れば、それはバルチック艦隊が近づい
たために日本が恐れをなしたためであろう」とロシアが思うからであると言うこ
とを、日本の駐米公使に語っている。要はルーズベルトは心から日本に親近感
を抱いていなかったからである。更には「ロシアの軍艦は殆どが自国製であるの
に対して、日本軍艦は全て外国製である点からも日本海軍が劣勢であると見る
べきこと、日本艦隊がロシア艦隊を外洋に迎撃できないのも劣勢の証拠になる
こと、などを指摘して推断した」と大統領は予測している、と「日露戦争6」(児島
襄)には記述されている。
要は日本は決戦を避けてほどほどに戦って海軍力を温存して講和をはかるべ
きだ、と言う考察なのである。大統領はさる書簡の中で、「要するに、米国の国
益と政策の対象として当面は日本の立場を支持するが、心情としては同じ白人
種のロシア人を好む」と言うようなことも記述していると言う。
しかしいまや日本艦隊がバルチック艦隊を完璧なまでに打ち負かしている。そし
てT.ルーズベルトは、先に述べたように「日本連合艦隊」の完全勝利に、度肝
を抜かれ神経昂進して公務まで放り出している。日本政府は、いよいよ、ルーズ
ベルト大統領に和平の斡旋を依頼することになる。