日韓併合100年(102)

(1)日本海海戦に負けたので、ロシアも和平を考慮せざるを得ない。

(2)和平交渉は、日本としては日露直接行う必要がある、考えている。

(3)しかしそのためにも中立者の「友誼的斡旋」が必要であり、

(4)ついてはルーズベルト大統領に、日本から頼まれたのではなく個人の考えで乗り出したとして、講和の斡旋をしてもらいたい。

(5)交渉斡旋の手続きなどは大統領に一任する。

(6)ロシア側を動かすのに、日本の更なる軍事行動は必要と考えるか、聞きたい。


と言ったものであった。この段階では奉天満州)で勝利し、日本海(海戦)でも

日本は勝利している。しかしロシア側の領土は「寸土」たりとも失っていないの

で、講和への圧力にはなりにくいのであった。


この高平公使は、日露開戦一ヶ月と言う早い時期に、有名な評論誌「The North

American Review」(1904/3月号)に「Why Japan resists Russia」(ロシアの満

州併呑は日本の死活問題である)と言う論文を寄稿している。更には、雑

誌「World Work」4月号に「What Japan Is Fighting For」でも論陣を張り、「日本

は近隣諸国の独立や領土に介入しない」と主張し、金子堅太郎(
'11/1/12,NO.

54参照
)と共にロシア側の米国世論獲得攻勢に対抗し米国世論を日本びいきに

なびかせている。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/pub/geppo/pdfs/06_1_2.pdf   を参照のこと。

 
然るに司馬遼太郎の「坂の上の雲6」(文芸春秋刊)の70頁では、高平小五郎を

外交官に必要な経綸の能力が無かった、と酷評しているが、これは司馬遼太郎

一流の「空想」であろう。したがって「坂の上の雲」は、検証しながら読む必要が

ある。


日本軍はロシア領には一歩たりとも入っていないことに、陸軍参謀本部参謀次

長岡外史少将
は、気が気ではなかった。なぜなら、そのために「
戦闘に勝ち

て戦争に負くる恐れあり
」だったからである。


長岡外史は、樺太占領を以前より主張していたのである。しかし日本海海戦

終了するまでは、誰にもこの主張は注目されなかった。特に海軍は敵の逃走艦

への警戒や各艦艇の修理や補修が必要との理由で、何かと乗ってこなかった。

ロシアも、まだ自国領土を少しも占領されていないので講和などに乗り出す気は

さらさら無かった。


しかしロシアの周りの国が少しずつ動き出していた。ドイツのヴィルヘルム2世と

ロシアのニコライ2世はウィリーとニッキーと呼び合う中であった。そのドイツがロ

シアの険悪な国内状況を憂慮して、早く和平を進めるべきだとニッキーに書類で

勧告したと言う。


そして1905/6/3に駐米ドイツ大使S.ステンブルクをして、ルーズベルト大統領

にそのことを伝えて、暗にルーズベルトに和平の斡旋をするよう依頼させた。

ドイツの意図は、明らかに独善的であった。何がどうあれ、ドイツは日本に対し

てあの「三国干渉」をした国である。

(続く)