7/10、樺太(南部)攻略部隊は豊原(ユジノサハリンスク)に到達し、本格的戦闘
に遭遇する。そして7/11,12、密林戦で雨で苦戦するが、ようやく敵陣に突入し
て敵を壊走させる。俘虜約2百、野砲4門/6門中、機銃1挺/3挺中を確保する。
日本側損害戦死14、負傷63。
7/11、ロシア本国では、元蔵相ウィッテに全権委員の白羽の矢が立った。ウィッ
テは講和推進論者てあった。ロシアの財政も危機的状況にあり、金を工面してく
れる外国は少なくなっていた。さらに、ロシアが満州、韓国から手を引けば、国
内生活は活力を取り戻すことが出来るものと考えていた。
'11/12/8,NO.37では、日清戦争後の三国干渉のことを述べている。それを企画
したのが、当時ロシアの蔵相だったこのウィッテであった。ずるがしこい強敵で
ある。
7/12、皇帝ニコライ2世は、ウィッテを講和全権委員に任命し、全権委員に、
賞金・領土の割譲はしてはならない、と申し付けている。
7/13、ウィッテは、関係者から軍事的判断を聴取した。その内容は、「1年間の
内に樺太と沿海州を奪取されるかもしれない。そして満州では、十億ルーブル
の戦費と二十五万人の損害」と言うものであった。そして一年と言わずすでに樺
太南部は占領されてしまっている。「至急の講和」の必要を痛感したのであっ
た。ウィッテの任命は、各国からは「これで講和が得られる」ものと好評を以って
迎えられた。
もう一人の全権委員は、駐米ロシア大使のローゼンであった。
7/16、樺太南部のロシア軍が降伏し、午後2時、武装解除される。気抜けする
ほどのあっけないものであった。報告を受けた参謀次長長岡外史少将は、いち
早く樺太攻略を実施していれば、そこからロシア満州軍の背後をつけたものを、
と大いに悔やんだが今となっては後の祭りである。ただ、ただ、参謀総長山縣有
朋元帥と海軍を恨むばかりであった。
7/17、ウィッテは記者会見で、「ロシアはそれほど軍事的な敗北は受けていな
い。だから、寛大な条件なら講和するが、過酷な条件ならば拒絶する。ロシア
は相手の言いなりの値段で平和を買うつもりはない。」と語っている。とは言うも
のの、海軍が壊滅しても陸軍にはまだ十分の余力があったが、ロシア社会の政
情不安に対しては一抹の不安を感じ、講和を急ぐ必要は十二分に認識していた。
7/19、 ウィッテは出発した。
同日午前8時30分、小村寿太郎を乗せたミネソタ号がポートタウンゼントに到
着した。シアトルの対岸と言っても北北西60~70kmに位置する当時は栄えてい
た漁港である。
そして翌7/20の朝シアトルに到着している。そして夜8時鉄道で、ニューヨーク
に向かって出発している。
7/21、ウィッテ、パリに到着する。ウィッテへの歓迎は華やかではあったが、熱
烈さは無く冷めたものであった。これに対して小村は行く先々で米国民の大歓迎
を受け、NYへ向かっている。
7/22、ウィッテは、エリゼー宮で仏首相M.ルヴィエと会見する。ルヴィエは講和
に賠償金が必要なら工面する、旨を伝え、仏大統領のE.ルーべは、ロシア国
内の騒擾(そうじょう)も激しくなり、極東から手を引くべきだ、と勧告している。
(続く)