日韓併合100年(119)

1854年には日露和親条約結び、樺太は両国の雑居地と定めたが、1875年

(M8)
の「樺太・千島交換条約」で、日本は千島を日本領とし樺太はロシア領と

なった。しかし元はというと樺太は日本領と言ってもよい領土であった。しかもこ

の交換条約はロシアに脅迫されて締結したものである。しかも現在(日露戦争

では)は、その樺太を日本は占領し、日本の行政下にある。しかも樺太は日本

列島に連なるものであり、もともと日本列島に属しロシアには属していない。

それにもともとロシアにとっての樺太などは、目の届かない化外(けがい、支配

の及ばない)の地であり、さほど重要なものではない。


しかしウィッテは、戦争に負けてもいないのに「割地」などあいならん、と一歩も譲

らない。お互いに平行線を辿り、会議は膠着した。そこでウィッテは、樺太をロシ

ア領にしておく代わりに、「樺太で日本人は自由に居住して、農林漁業をしてよ

いと言う「最優遇」を与える」と言うが、小村委員は即座に拒否する。現に日本は

樺太を占領しているのであるから、その状態は確保されているのである。拒否

するのが当たり前である。そのため議論を進めるために、(5)樺太の割譲問題

(比較的必要条件)は、先送りすることとなった。談判決裂の張り詰めた空気が、

これで安堵感に変わる。


午後は、 (6)清国に於けるロシア権益の割譲(付加条件)の討議に入った。こ

の条は、すでにロシア側は同意を表明しているので、もっぱら字句の修正に終始

して議論を終えた。


日本側のマスコミ対応は、お世辞にもよいと言うものではなかった。会議には

120人もの記者がいるが、当初は全てが日本びいきであったが、ロシア側から

会議の内容が洩れてくるので、いまや大半が「親露派」に変りつつある。記者た

ちの受ける感触は、ロシアが多くの譲歩を行い、日本側は少しも妥協しないとの

雰囲気に固まりつつあった。このことは、ルーズベルトが仲介に入った時に、

日本側により譲歩を求める形になりやすいことを意味する。新聞の論評も「ロシ

アペース」との見方が多数を占めた。ウィッテの望むところであった。


8/16
(7)南満州鉄道および付属権益の譲渡(絶対的条件)の討議が行わ

れた。日本譲渡する鉄道の範囲でもめた。日本側はハルビンまでの全線の譲渡

を要求したが、ロシア側は、日本軍はまだそこまで進出していないと拒否する。

そのため永沼挺身隊長春近くの張家窪子で戦闘を行っていたので、長春

でと更に吉林までの予定線を含めて日本に譲渡されることとなった。


(8)
満州横貫鉄道の非軍事化
(付加条件)はロシア側も異存が無かったので、

至極あっさりと合意が成立した、と
日露戦争7」(児島襄)は結んでいる。


これで講和条件全12条の内、8条まで済んだ。そのうち5条が樺太の割譲であ

り、これは先送りされている。残りの4条の内には、ロシアの譲歩不可の3項目

が含まれることになる。ロシアが譲歩できる1項目を除いて、残りは全て譲歩不

可の項目
となる。だから、記者たちは早々に日露講和談判は決裂するであろ

う、と憶測を逞しくしていた。記者たちの取材攻勢も激しくなった。そのためウィッ

テは「次の第9条が賠償金問題だ。賠償金と樺太問題は最後まで残る。」と記

者団に述べている。ロシア側は、講和談判の帰趨が日本のために決裂の危機

に瀕していると強調した。そして記者たちは日本側委員からも、講和談判決裂

を予期している気配を感じているようであった。


新聞の論調は、決裂した場合にはT・ルーズベルト大統領が仲介に乗り出し、

今までのウィッテなどからの情報からすると、日本に圧力をかけてくれるであろ

う、式のものが多かった。ロシア勝利とする論調であった。

(続く)