8/30、米国の新聞は講和成立を祝う記事で賑わったが、ロシア、日本の両当事
国の反応はすこぶる消極的であった。政府としては講和条約の調印がなされな
いうちは、正式決定とはしていなかったために、政府発表が無かったからである。
8/31、日本政府は朝から、臨時閣議を開き、講和成立と条件の概要を報告し、
休戦条約案を議決した。そして休戦条約案の天皇裁可を得て小村委員に訓電
した。しかし講和関係については何も公表しなかった。しかし新聞記事などで
「屈辱の講和」内容を知った一般市民からは、怒りを示した投書が殺到していた。
そして夜にはウィッテにも「休戦条約」の交渉指示が届き、ニコライ2世が講和を
承認したことを知り、ウィッテもホッと胸を撫で下ろしている。
この日も米国の新聞はロシアの勝利との論評を報じていたが、NYタイムス紙
には英紙「ザ・タイムス」の北京支局長G・モリソンの評論を伝えている。モリソ
ンは極東外交通であった。
「勝ったのは日本だ。しかも、その勝利は完璧である」
「ロシアは45年間金と人をつぎ込んで経営してきた満州を失った。日本は朝鮮
を支配下に置き、満州からロシアを追放し安全と権益を入手し、樺太も南部を獲
得した。沿海州の漁業権や獲得した清国のロシア権益がもたらす収益は、一時
的な償金などとは比べられないほどの利益となろう」
と言うものであった。モリソンは日本の同盟国イギリス人であるが、NYタイムス
紙などは「冷静かつ適切」と評価した。
9/1、しかし一般民衆の態度は「屈辱講和」だといった態度に終始していた。この
日の日本の各新聞も講和反対の論調で統一され、紙面は「悲憤、痛憤、哭憤」
の文字に埋められていた。新聞の論説では、日本の講和条件は、「償金」「割
地」「逃艦交付」「ロシア海軍力制限」の四つではなかったか、然るにこの4条
件を全て捨てた、日本政府自ら日本国民を侮辱するに当る、などと論じていた。
不十分な情報の下に決意と覚悟を求められ臥薪嘗胆して耐えて政府を支えてき
た国民にとっては、情と気がなかなかそのことに対しては、静まることは難し
かった。
しかしながら内実は、正確なデータを持つ政府側の判断に軍配が上がる。した
がっていかに国民を導いてゆくかは、政府にとって最重要課題である。政府は
国民によって支えられ、国民は政府によって導かれる。日露戦争を遂行した明
治の先達は、誠に偉大であった。まともに戦えば日本はロシアの敵ではない。し
かしながらロシアの戦争準備が整う前に開戦への緒を開いた時の外相小村
寿太郎の功績は大きかったものと言わざるを得ない。
'10/12/29,NO.50のブログでは、ロシアの満州占領と朝鮮進出について述べて
いる。ロシアは朝鮮を占領することをはじめから考えていたのである。1901/12
には、ロシア外相ラムスドルフは同盟国のフランスの駐露代理大使ブーティロン
に次のように述べている。これは「小村寿太郎とその時代」(岡崎久彦著、PHP
文庫)に述べられていることである。ちなみにフランスはロシアとともに日本に対
して三国干渉をした仲間である('10/12/8,NO.37参照)。
(続く)