このようなロシアの考えは、今の時代でも変わっていない。さらに厄介なことに
は、そのロシアと同じ考えのならず者国家が、その隣に存在していることであ
る、共産中国である。それなのに日本の民主党政権には、そんな危機意識は少
しもない。管も鳩山も小沢にも、日本を存続させようなどと言う戦略、長期的な
計画・企画など、全く持ち合わせていないのである。そんな政党が衆議院で過
半数を牛耳っている。誠に困ったことである。参議院は野党が過半数を確保して
いるだけ、希望があるというものである。
さて日本で「屈辱講和反対」の言論が渦巻いている頃、ポーツマスでは9/1の朝
を迎えていた。高平委員の部屋に、ロシア側の休戦条約案が届いていた。休戦
条約案は両国委員たちの検討を経てまとまり、午前11時30分、両国全権委
員の調印により休戦条約は成立した。しかし休戦条約は「講和条約調印後直ち
に実施する」事になっている。そのため講和条約を早く調印する必要がある。
そのため午後8時30分から小村、ウィッテ両委員は字句問題にまで踏み込ん
で講和条約案を討議・完成させた。2人とも本国での反対機運により、講和条
約が無効にならないかと気がかりであった。
9/2、日本国内では各新聞に「反講和」の投書が増加した。政府系新聞の「国民
新聞」は、償金のために戦争を継続することは不条理であり、世界の世論の支
えが必要である旨の社説を掲げて政府を援護したが、かえって批判を煽ってし
まいかねない状況であった。早期開戦論を唱えた「対露同志会」から発展した
「講和問題同志連合会」は、講和条約調印前に調印阻止を目的に日比谷公園
で「国民大会」を開催する計画を立てていた。
14時間の時差のあるポーツマスでは、9/2の朝を迎えていた。満州撤兵条件の
討議が残されている。会談は午後4時からである。そしてこの日で討議は終了と
なり、9/3条約文作成、9/4調印という予定となる。
撤兵条件で問題となるのは、撤兵時期と鉄道守備兵の規模である。日本は早
く満州からロシア兵を撤退させたいので、10ヵ月を提案したが結局ロシアの反対
にあい18ヵ月となる。守備兵力についても、1kmにつき5名の日本提案に対して
ロシア側は20名を提案し、結局は1km辺り15名で決着する。しかしウィッテは満
州から撤退した日本兵は朝鮮に留め置かれるのではないか、と疑問を投げか
けた。これに対して小村も、ロシアが沿海州に大軍を駐留させれば日本の脅威
となるではないか、と反論する。その上、ロシアは日本に朝鮮の最優先権を与え
ることを承認しているので、ロシアに「とやかく言われる」筋合いのものではない、
と言うことでこの件は沙汰止みとなる。次いで樺太関係の確認が済んで、講和
談判終了となる。
そして9/3中に条約書を作成して9/4午後調印というスケジュールが確認された。
大統領ルーズベルトは、日本国内での反講和運動の盛り上がりを知り、金子に
書簡を送っている。「講和では日本は莫大な利益を得ている。このことを国民に
公表して国民の反感を静めたらどうか」と言うものであった。この考えは国民新
聞の社説と「軌を一にする」ものであった。
しかし日本各地で反対集会がもたれていた。「大阪市民大会」は最も過激で
あった。「政府は国民に謝罪して、講和条件を破棄して、戦争を継続せよ」といっ
た趣旨の決議を採択している。
(続く)