日韓併合100年(140)

ちなみに、内相とは内務省を指揮監督する内務大臣のことで、警察・治安・衛生

地方自治などを管轄していた。1947年限りで廃止されている。内大臣とは宮中

のポストであり、内務大臣とは関係ない。とはWikipediaの説明である。


調印
は、午後3時開始予定が、条約文の作成、同チェックに時間が掛かり、9/5,

午後3時42分
に開始された。条約文、その追加約款、最終議事録の3種の関

係書類が英仏文で各2部、それらが2セットで全部で12部となる。日本側、小村

委員、高平委員。ロシア側、ウィッテとローゼン。それぞれ12回の署名となる。


調印が終わると、今か今かと構内に待機していた砲列から一斉に19発の祝砲

が発射された。それを合図にポーツマスの教会という教会、港の船という船全

てが、鐘と汽笛を鳴らした。街の建物には次々と米国旗が掲揚された。


戦争は終わった。
芝居がかったものはない、簡素な儀式だった。しかし、最高

の儀式だった。
」と特別参列者の一人、ニューハンプシャー州知事マクレイン

は、そう、回想している、と
日露戦争8」(児島襄)は述べている。


そして祝杯のために食堂に向かったが、シャンペンは用意されていたが、その

杯がひとつもなかったと言う。そのため杯が用意されるまでウィッテは小村委員

と歓談を試みた。ウィッテはフランス語で話しかけ、通訳を探したが、小村委員

は即座にフランス語で答えたという。小村委員は、談判中日本語か英語しか話

さなかったから、ウィッテはさぞかしびっくりしたことであろう。しかしそのそぶりは

少しも見せずに話を続けたという。


その筋の日本の政治家、官僚は、このようにすべからく2ヵ国語ぐらいはしゃべ

れなくては、その役目は果たせないであろう。今の民主党の政治家の中で、1ヵ

国語でも外国語を理解する輩はどれ程いるのであろうか。殆ど皆無に近い数字

となるのではないか。


日本全権団のうち小村委員ら5人はその夜、ポーツマスを発ってボストン

一泊している。その頃東京は、9/6,正午過ぎであった。朝刊各紙には、日比谷

焼打ち事件を一種の義挙だと取れるような論調が多かった。政府は警戒を厳重

にし、戒厳令施行を内々に決めた。


午後3時頃
、よせばよいものを、浅草公園で1人の日本人伝道師がキリスト教

を称える演説を始めた。そして「ロシアはキリスト教を信じているため、償金の支

払いを免れた」などと口走ってしまった。この言い草は、集まっている群集に対

して、「火に油を注ぐ」結果となってしまった。


「何を言うか。非国民、貴様は露探だ。」と怒声を浴びせた。逃げ出した伝道師、

それを追っかける民衆、伝道師が逃げこんだ教会を、民衆は襲った。そして放火

した。これが2日目の暴動の始まりであった。今夜の襲撃の対象は、教会と市

街電車と警察
であった。街を練り歩く群集のため数十両の市街電車が停車して

いる。群集はそれらに火をつけて回った。そして数十の派出所や分署も焼打ち

され、教会は
日露戦争8」(児島襄)に載っている名前だけでも12に及んでいる

ので、20近い教会が襲われたことであろう。政府は9/6が終わる深夜戒厳令

を発して、軍隊を出動させた。暴徒は警察を襲撃するものの、軍隊は味方だと

して軍隊の言うことはよく聞いた。

(続く)