戒厳令が発せられた東京の治安は劇的に回復した。群集の暴発を煽った新
聞は、早速2日間の発行停止を食らっている。地方にはこの戒厳令は適用され
ない。そのため神戸では暴動が発生した。しかし組織されていないもので単発
に終わっている。
9/8、夜、小村委員は高熱を発して倒れた。明日は大統領との昼食会がある。
9/9、それでも小村委員と高平委員は朝9:30にNYのホテルを出発し、オイスター
・ベイの大統領別荘に向かった。NYからは、大統領差し回しの軍艦「シルフ」で
オイスター・ベイに向かう。
小村委員は挨拶を済ませると、すぐさま気掛りとなっている要件を切り出した。
気掛りな件とは、ロシアの「陰謀的動作」への防御策である。ロシアは日本の
韓国に対する「自由行動権」を認めたが、必ずやそれを妨害するための策を画
策してくる筈である。
10年程前の1896/2/11には、朝鮮王朝へ「日本兵が攻め込んでくる」と嘘の情
報を届けて、朝鮮王の高宗をロシア公使館へ幽閉して1年間もロシア寄りの政
治を取らせている。露館播遷である。'10/12/10,NO.39を参照願う。
もっとひどかった干渉は、例の三国干渉である。1895/4/23のことである。この
ため日本は泣く泣く遼東半島を清国へ還付している。そうしたら1898/3/27には
旅順大連租借条約を結び、日本が清国に返還した遼東半島を手に入れ、東清
鉄道支線の鉄道敷設権も強引に手に入れている。
またこれより以前では、1895/7/6には、ロシアは閔妃と組んでクーデターを起こ
している。乙未事変の始まりである。そして1900/7には満州を占領してしまう。
そして1900/11には第2次露清密約を結び、満州全域の支配権を手に入れて
いる。そのためそれに対抗するために日本とイギリスは1901/10/16から小村寿
太郎が交渉を始め、1902/1/30に日英同盟を結ぶことになる。ここら辺りの事
情は、'10/12/22,NO.46や'10/12/28,NO.49~51などを参照願いたい。
だから小村委員は高熱を発しているにも拘らず、無理をしてでもオイスター・ベイ
に出かけたのである。韓国の保護権と満州の権益を確保することを、ルーズ
ベルト大統領に認めさせるためである。
満州の権益の確保は、日本が提示した講和条件の12項目の内
(6)清国におけるロシア権益の割譲 や
(7)南満州鉄道および付属権益の譲渡 の項目が該当している。
これらは講和談判で日本の要求通りに、ロシアは認めている。そのために日本
は清国にそのことを認めさせる必要があったのである。この件については、講
和談判の過程でどのようにして清国と交渉するかが問題となったが、講和談判
での議題は日露の二カ国の問題なので、ここでは交渉議題にはされなかった。
日本がロシアから譲渡された権益は、同じように日本に対しても清国に認めても
らう必要があるのである。ロシアに認めて日本には認めない、ということは許し
がたいことなのである。だから清国が、これを機会に認めないということになれ
ば、日本はなんとしても清国に認めさせなければならないのである。
今の日本人は、日本が満州を侵略して占領したとでも思っているようであるが、
それはとんでもない間違いである。そのような勘違いは、コミンテルンの宣伝に
載せられているだけなのである。満州に日本が権益を得たのは、このように9万
人の戦没者と15万4千人の負傷者を出して満州からロシアを駆逐した結果、ロ
シアの権益を譲り受けたものであった。
(続く)