さて、日本としては、ロシアの陰謀を防ぐためにも、「韓国の外交関係を引き受
ける」決意であり、また、講和条約による満州の鉄道と租借地を中国に要求す
ることになっているが、円満に解決できない場合には「実力」で実行する、という
ものである。
小村「ご意見あらば、承りたし」、ルーズベルト「平和条約の結果、斯くなるべきこ
とは予期したる所にして、且将来の禍根を絶滅するには、此の外策なしと思考
す」と即座に同意した。
小村委員は、将来の日本の政策に対する米国の諒解を得ておく、という、いわ
ば講和の「仕上げ」をすませた安堵で気が緩んだか、発熱に腹痛も加わった。
異常に気付いた大統領は、即座に静養を勧めた。そして往路と同じく海路でNY
へ戻った。
大統領は、夜はウィッテとの晩餐会であった。ウィッテは大統領夫妻の歓待に
満足して帰って行ったが、大統領の気持ちは全く反対であった。
「余は、ウィッテを好むというを得ない。・・・日本人はこの三ヵ月間のみならず、
予の大統領となりし以来、彼等が言明したものは必ず実行するものとして、全然
信頼するを得さしめた・・・露国人に至りては、極めて不健全かつ普遍的の腐敗
と利己を示した。ウィッテの大言は愚を示すのみで、日本人の紳士的な自重自
制に比すれば、驚くべき程の粗野である。余は、賢明なるウィッテに対し、侮蔑
の情を禁ずる能はざる感を、催した」
と言うものであった。
ホテル「ウォルドーフ・アストリア」に戻った小村委員は38度9分の高熱にあえ
ぎ、深夜医者の往診を受ける。
9/10、医者の見立ては、感冒から胆嚢に炎症、胃液不通による消化不良に
なった、と言うものであったので、佐藤随員は午前10時「心配不要、帰国スケ
ジュールに変更なし」と発表した。帰国スケジュールは、9/12NY発、9/20シアト
ル出帆と言うものであった。14時間先行している日本では丁度、9/11になった
ばかりの午前零時であった。それからしばらくして、佐世保で爆発が起こった。
最初の爆発は小さかったが、次々大爆発が起こった。戦艦三笠であった。連合
艦隊司令長官東郷平八郎大将が、天皇陛下のご召命(お召しだし)を受け、上
京中のことであった。そのため半舷上陸中のことであったが、それでも死者
339名、負傷者360名の多きにのぼった。三笠は沈み艦橋以上を水面上に出し
着底した。下瀬火薬の暴発によるものかと推理されたが、原因は特定できな
かった。着底した三笠は翌年1906/8/8浮揚、佐世保工廠で修理されて、
1908/4/24に第1艦隊旗艦として現役に戻っている。
9/12、ロシア全権団はこの日NYを出帆し、帰国の途に着いた。宿舎のホテルで
も埠頭でも見送りの群衆で充満していた。ウィッテの米国民懐柔策の勝利で
あった。言い換えれば、ウィッテは米国民の声をバックに、講和談判を交渉して
言ったのである。日本も如何に世論を味方にするか、もっともっと真剣に考えな
ければならない。最もよい例は、昨年2010/9/7に発生した中国漁船の日本巡視
船への衝突事件である。中国漁船が日本巡視船へ突っ込んで衝突するビデオ
が流出すると、一遍に反中国に世論はまとまった。その代わり民主党政権、な
かんずく菅直人のポン助振りが世界に示されてしまった。全く頓馬な政権と政
党だ、民主党は。それでも野田は少しはマシか?。
ウィッテは、客船「カイザー・ヴィルヘルム二世」号から、駐米大使に帰任するR・
ローゼンに感謝の意を示す電報を送った、「本職は、貴官の愛国的援助に衷心
より感謝す」。
(続く)