日韓併合100年(143)

さて、日本としては、ロシアの陰謀を防ぐためにも、「韓国の外交関係を引き受

ける
」決意であり、また、講和条約による満州の鉄道と租借地中国に要求

ることになっているが、円満に解決できない場合には「実力」で実行する、という

ものである。


小村「
ご意見あらば、承りたし」、ルーズベルト平和条約の結果、斯くなるべきこ

とは予期したる所にして、且将来の禍根を絶滅するには、此の外策なしと思考

」と即座に同意した。


小村委員は、将来の日本の政策に対する米国の諒解を得ておく、という、いわ

講和の「仕上げ」をすませた安堵で気が緩んだか、発熱に腹痛も加わった。

異常に気付いた大統領は、即座に静養を勧めた。そして往路と同じく海路でNY

へ戻った。


大統領は、夜はウィッテとの晩餐会であった。ウィッテは大統領夫妻の歓待に

満足して帰って行ったが、大統領の気持ちは全く反対であった。


余は、ウィッテを好むというを得ない。・・・日本人はこの三ヵ月間のみならず、

予の大統領となりし以来、彼等が言明したものは必ず実行するものとして、全然

信頼するを得さしめた・・・露国人に至りては、極めて不健全かつ普遍的の腐敗

と利己を示した。ウィッテの大言は愚を示すのみで、日本人の紳士的な自重自

制に比すれば、驚くべき程の粗野である。余は、賢明なるウィッテに対し、侮蔑

の情を禁ずる能はざる感を、催した


と言うものであった。


ホテル「ウォルドーフ・アストリア」に戻った小村委員は38度9分の高熱にあえ

ぎ、深夜医者の往診を受ける。


9/10
、医者の見立ては、感冒から胆嚢に炎症、胃液不通による消化不良に

なった、と言うものであったので、佐藤随員は午前10時「
心配不要、帰国スケ

ジュールに変更なし
」と発表した。帰国スケジュールは、9/12NY発、9/20シアト

ル出帆と言うものであった。14時間先行している日本では丁度、9/11になった

ばかりの午前零時であった。それからしばらくして、佐世保で爆発が起こった。

最初の爆発は小さかったが、次々大爆発が起こった。戦艦三笠であった。連合

隊司令長官東郷平八郎大将が、天皇陛下のご召命(お召しだし)を受け、上

京中のことであった。そのため半舷上陸中のことであったが、それでも死者

339名、負傷者360名の多きにのぼった。三笠は沈み艦橋以上を水面上に出し

着底した。下瀬火薬の暴発によるものかと推理されたが、原因は特定できな

かった。着底した三笠は翌年1906/8/8浮揚、佐世保工廠で修理されて、

1908/4/24に第1艦隊旗艦として現役に戻っている。


9/12
、ロシア全権団はこの日NYを出帆し、帰国の途に着いた。宿舎のホテルで

も埠頭でも見送りの群衆で充満していた。ウィッテ米国民懐柔策の勝利

あった。言い換えれば、ウィッテは米国民の声をバックに、講和談判を交渉して

言ったのである。日本も如何に世論を味方にするか、もっともっと真剣に考えな

ければならない。最もよい例は、昨年2010/9/7に発生した中国漁船の日本巡視

船への衝突事件である。中国漁船が日本巡視船へ突っ込んで衝突するビデオ

が流出すると、一遍に反中国に世論はまとまった。その代わり民主党政権、な

かんずく菅直人のポン助振りが世界に示されてしまった。全く頓馬な政権と政

党だ、民主党は。それでも野田は少しはマシか?。


ウィッテは、客船「カイザー・ヴィルヘルム二世」号から、駐米大使に帰任するR・

ローゼンに感謝の意を示す電報を送った、「
本職は、貴官の愛国的援助に衷心

より感謝す
」。
(続く)