この電報の真意は、講和成立をひたすら喜ぶものではなかった。ウィッテの秘書
コロストウェツによれば、ウィッテもローゼンも「この場合」には単に平和が必要
だっただけで、恒久的な平和を願ったものではなかった。次のように手記してい
るという。
「ウィッテは、この平和は永続しない、それは太平洋に於ける(日露)両民族の
闘争の一段階に過ぎない、と考えていた。ローゼンは、ポーツマスの和睦は休
戦にとどまる、ロシアは再び開戦して日本を徹底的に粉砕して、一挙に脅威を
除かねばならぬ、と考えていたのである。」
要は、力を蓄えてから日本に復仇し東洋に進出する、それまでの辛抱だ、と両
委員は覚悟していたのだ、というのである。この考え方は、多くのロシア人に共
通していたもので、もし明石元二郎大佐のロシア革命工作が成功していなかっ
たら、ひょっとしたら早い段階に、日本はロシアに攻め込まれていたかもしれな
い。しかしながら1945年昭和20年にロシアは満州の日本関東軍や日本人開拓
地に、無謀にも攻め込んで無法にも80万人という日本軍将兵と民間人をシベリ
アに抑留した。
モスクワのロシア国立軍事公文書館には76万人分史料が収蔵されている
とWikipediaに記されているからには、日本人抑留者は最高200万人に上ると
言われている説もあながち嘘ではない数字であろう。遠くシベリアの地で果てた
多くの同胞のご冥福を祈る!憎きロシア。
このロシアの外洋へ進出するという考えを受け継いでいるのが、今の共産党中
国である。第1列島線、第2列島線の考え方がまさにそれに該当する。中国の
日本侵略の意図は当ブログ「日韓併合」の2010/12/27,NO.48でも解説しておい
たが、其の根拠は退役軍人で元中国国防大臣の「遅浩田」が発表している
「戦争が正に我々に向かってやってくる」という『日本殲滅』を計画し実行する
とした論文が今でも生きているということである(2009/5/13,尖閣諸島問題
NO.36参照のこと)。そして中国は勝手に領海法を制定し、国境は軍事力で拡
大できると断じている。この件は、2008/6/10,中国覇権主義NO.6や2009/9/10,
尖閣諸島問題NO.125などを参照願う。そして更には、其の考えを拡大させて太
平洋をアメリカと2分割して統治したいとアメリカ太平洋軍海軍大将のティモシー
・キーティングに申し出ているのである。この件は、2008/6/17,中国覇権主
義NO.11を参照されるとよい。第1、第2列島線については、2010/6/28の年央
雑感NO.6などを参照願う。
委員小村の帰国出発日は14日に延期されていたが、医者の見立ては、14日
も出発見合わせであった。
9/13、満州の地では、休戦協定が調印された。満州軍総司令部高級参謀福島
安正少将とロシア満州軍参謀S・オロノフスキー少将との間の交渉は、通訳に
難儀しながら、ようやく午後7時20分休戦条件議定書の調印が完了した。
「満州全部において戦闘を中止す・・・本議定書は、明治38年(1905年)9月
16日正午より効力を生ず」やれやれだ。
9/5の講和条約調印の報告を受けたロシア軍の前線では、各地で将校達が白旗
を掲げて日本軍前線へやってきた。そしてタバコや名刺などの交換をせがんだ。
ロシア側は、講和成立即ち「昨日の敵は今日の友」になったのだからと、記念品
集めを思い立ったのである。だか、日本側としては、休戦が正式に協定されるま
では、いぜんとして「昨日と敵は今日も敵」なので、交歓に応ずるわけには行か
ない。と「日露戦争8」(児島襄)と記している。
ホテル「ウォルドーフ・アストリア」では午前9時、小村は3人目の医者の診察を
受け、「腸チフス」との診断を受けた。小村委員は10年前にも腸チフスを患ったこ
とがあり、今の症状はそのときに似ていた。そのため其の診断を受け入れ、帰
国を延期し10/2バンクーバー発の「エンプレス・オブ・インディア」号に変更した。
しかし随員は3人を除いて、必要書類と共に帰国させることにした。
随員は、駐メキシコ弁理公使佐藤愛磨、外務省政務局長山座次郎、公使館一
等書記官安達峯一郎、外務書記官本多熊太郎、外交官小西孝太郎、仏国在
勤公使館二等書記官落合健太郎、米国在勤三等書記官植原正直、外務省顧
問H・デニソン、駐米公使館付陸軍武官立花小一郎大佐、駐米公使館付海軍武
官竹下勇中佐
残るのは、佐藤愛磨、本多熊太郎、小西孝太郎の3人であった。そして駐在武
官の2人は駐米公使館に帰任し、それ以外は日本に帰る。
(続く)