9/14、小村委員は、随員達に別れの挨拶をした。小村委員はベッドに身を起こ
して、「この度の談判中は、皆々よく働きたり。感謝す。尚益々奮励せられたし」
と述べ、一人一人に握手した。帰国する随員達は、小村委員の弱った様子に皆
万感胸に迫るものがあった。
小村委員は、山座次郎に講和条約の仏文原本と英文謄本を渡し、仏文謄本と
英文原本は自身で日本に持ち帰ることにした。
小村の症状は9/16頃より快方に向かいだした。そして9/18にシカゴの「医学者
大会」に出席していた軍医総監の鈴木重道が来診した。米人医師達3人はチフ
スの診断に全員一致していなかったため、日本の要人に対する誤診を恐れそ
の旨発表を控えていたが、日本の軍医総監もチフスとの見立てに小村の症状
を「軽度かつ不正規の腸チフス」と、(午後6時に)佐藤随員から発表された。
この日、英国に立ち寄っていたロシア全権委員のウィッテからも見舞い電が到着
していた。しかしウィッテはその回想録で小村委員の罹病を批判している、と
「日露戦争8」(児島襄)は述べている。
ホテル「ウェントワース」で米国側が用意してくれた「山海の珍味」には、冷肉が
多かったため委員ウィッテは危険を感じ、小村委員にも注意したという。ウィッテ
は小食を心がけたが、小村は「何を食っても構わず」と健啖(けんたん、盛んに食
うこと)を続けたという。「彼はそのため、果たして病にかかり、チフスとまでなっ
た」と批判しているのだ。
同じく9/18、韓国・羅津浦港では、第2艦隊第2戦隊司令官島村速雄少将と、ウ
ラジオストクのロシア太平洋艦隊司令長官代理のE・エッセン少将との間で海軍
休戦協定が結ばれた。ロシア側は日本側提案の条件は拒絶したかったが、既
に対抗できる海軍力は無く結局は受諾せざるを得なかった、と記されている。し
かし北韓地区の休戦協定は日本の要求する「図門江左岸」へのロシア軍の撤退
を承知せずその時点ではまとまっていなかった、としている(門にはニンベンが
付く)。
9/23、NYでは小村委員の回復も進み、鈴木軍医総監の許しも出たので、4日
後(9/27)に帰国の途に着く旨、桂首相に電報が打たれた。
9/27、小村委員は3人の随員と共に、午前8時ホテル出発、午前9時45分初の
列車でニューヨーク中央駅を後にした。ニューヨーク中央駅は見送り人で埋ま
り、警官は汗だくになって小村委員一行の通路を開いた、と記されている。
「ニューヨーク・タイムス」紙は、「賢明な小さな東洋の外交官が、日本に帰っ
た」との離別の辞を送った。
10/2、全権委員小村寿太郎は、予定通り客船「エンブレス・オブ・インディア」で
バンクーバーを出発した。元法相でルーズベルト大統領との間を取り持った金
子堅太郎も、共に帰国した。したがって小村、金子のほか佐藤愛磨、本田熊
太郎、小西孝太郎の5人が船上の人となった。小村の講和談判はまだ終わりで
はなかった。船上でも小村は、横になりながらも日本の最重要権益地帯となる
満州、韓国に関して「満韓経営綱領」を構想していた。
(続く)