10/5、先発帰国組の5人の随員達を載せた汽船が横浜に入港した。出迎え人
に通商局長石井菊次郎がいた。彼は、鉄道王エドワード・ハリマンと日本政府
間での「南満州鉄道」の日米共同経営の話が進んでいることを知っていた。
石井局長は、その話を 外務省政務局長山座次郎に伝えた。
ハリマン一族はユニオン・パシフィック鉄道を所有していた。その鉄道を経由し
て世界一周の交通路を作るという壮大な計画を持っていた。アメリカの東海岸
のボルチモアからシカゴを経由してユニオン・パシフィック鉄道を経由してサン
フランシスコに至り、太平洋を太平洋郵船で横断し、大連からハルビン、モス
クワにいたり、リバウ港を出て、汽船でボルチモアに戻るという世界一周交通
路「ハリマン・ライン」をつくり、アジア、ヨーロッパの商圏を米国が握ろうとする
壮大な計画であった。
ボルチモアはチェサピーク湾の奥に位置しワシントンD.C.のすぐ近くの北東側
に位置している。
大連から長春、そしてハルビンへの鉄道は東清鉄道支線だが、大連から長春
間は日露戦争で日本が獲得している「南満州鉄道」である。そしてハルビンから
モスクワへは東清鉄道、シベリア鉄道と乗り継ぐのである。その手始めが南満
州鉄道の日米共同経営だったのである。当時支那大陸へは、英国、フランス、
ドイツ、日本が権益を持っていたが、アメリカはなんの権益も得ていなかった。
そのためにも満鉄を日本と共同経営にすることで、支那大陸への橋頭堡を確
保したかったのである。
そのためハリマンは8/31に横浜に着く。日本は賠償金も取れずに多額の外債で
日露戦争を戦ってきた。ハリマン商会はその外債購入にも参加している。日本
が経済的にも困窮している事情は十分知っていた。そして満州鉄道の経営にも
外資の導入が無ければ不可能な状態であることも理解していた。ロシアにとっ
ても、事情は似たか拠ったかであった。
ハリマンは鉄道と付属の炭鉱の経営のための資金調達する日米共同のシンジ
ケート(企業連合)を結成する約束を取り付けた。日本は獲得した鉄道と付属物
を現物出資するので経費は不要であり、其の他の条件面でもそれほど不利なも
のではなかったと言う。またロシアの復讐戦を心配する日本にとっては、米国と
組むことにはそれなりのメリットがあると考えられた。
しかし外務省政務局長山座次郎は、満州鉄道の実権が米国に握られ戦時にお
いて満鉄の軍事利用に(自由に使えることになっているとしても)障害が発生し
かねないことを憂慮し、これを潰そうと決心した。そして今回の騒擾は山座達が
政府を非難したことに始まるのではないか、と山本海軍大臣が述べていることを
聞き及んで、山座は余計に頭に血が上った。そして桂首相にも、満鉄の共同経
営の問題で突き上げた。
ハリマンと駐日公使L・グリスコムは日本政府、元老などに積極的に働きかけ
た。元老の伊藤博文、松方正義、井上馨と首相の桂太郎はこの案に大賛成で
あった。特に井上馨は積極的だった。そしてハリマンが離日する1905/10/12に
横浜で、「南満州鉄道」の日米共同経営の協定が調印されるはずであったが、
山座局長の突き上げもありたまたま小村寿太郎が10/16に帰国するので、それ
を待つことになってしまった。ハリマンは仕方なく協定案を携えて横浜を出立す
る羽目となった。
10/16、正午小村を乗せた「エンブレス・オブ・インディア」号は横浜港沖に現れ
た。船は検疫を受ける。そして出迎えの山座局長達は船に乗り込んだ。そして
真っ先に小村委員を居室に連れ戻すと、山座局長は「ハリマン提案」の件を
小村委員に報告した。小村委員はびっくり仰天の有様であった。「こんな事態に
ならないように、満韓経営綱領を作っているのだ。そのために病を押しての帰
国なのだ。打つ手はないか。」と山座局長に尋ねた。山座は、ハリマンはまだ船
上にいるので、ハリマンがサンフランシスコに着く前に「協定案」の否決を連絡
すればよかろう、と話し小村委員はすぐさま行動することを決意した。
(続く)