日露戦争は、ロシアを満州から駆逐し、韓国への手出しを止めさせる事であっ
た。ロシアの究極の目標は朝鮮の獲得であった。以前にも言及してあるが、朝
鮮半島の先端の馬山マサンと巨済島を租借し奉天→旅順→馬山→浦塩と満
州、朝鮮を囲い込んでいたのである。そして北韓の咸鏡道(かんきょうどう)に侵
入し鉱山、山林資源の獲得のために、ロシア軍は侵入していたのである。その
上満州、遼東半島まで押さえていたのである。恐怖を感じた日本政府は、朝鮮
だけにはロシアに侵入させたくはなかった。朝鮮が最終防御線であった。その
ため日本政府は、敢えて、満州はロシアの自由にしてよいが、その代わり朝鮮
は日本が自由にしたい、と言う「満韓交換論」まで持ち出して、ロシアの侵略を
抑えるために交渉したのであった。
ここら辺りの事情は、'11/1/10,NO.52や'11/6/10,NO.90や6/13,NO.91などを参
照願うが、ロシアは世界一の軍事大国であったため、日本のそんな提案には歯
牙にもかけなかったのである。
そんな訳で、日本は1904/2/6にロシアと国交を断絶し、1904/2/8には日露が開
戦し、同2/10にロシアに宣戦を布告したのである。
1904/2/6 日本、露国と国交断絶。
1904/2/8 仁川沖でコレーツと小競り合い、日露開戦。同夜旅順港急襲
するも失敗。
1904/2/10 日本、露国に宣戦布告。
所詮ロシアと戦うためには、韓国も戦場となる。当然、韓国内を自由に使えない
と日本はまともに戦争が出来ない。
そのため、日露戦争が始まると、1904/2/23に日本は韓国側と交渉して「日韓
議定書」を結ばせた。日本は韓国を防衛する代わりに、韓国の領土を自由に軍
事使用できる、と言うものであった。そしてその第五条には、このような内容の
条約を他国とは結ばない、と言う条項があり、韓国の外交権を制限するもので
一種の韓国の保護国化を意味するものであった。この件は、'11/1/21,NO.59や
'11/1/21, NO.61なども参照願う。
1905/9/5に日露講和条約が結ばれ、日本はロシアに対して韓国の保護国化を
認めさせたのである。ロシアが朝鮮から手を引いた今となっては、韓国の保護
国化はどのように進んでいったのであろうか。満鉄の共同経営の「予備協定覚
書」が1905/10/12に調印されようとしたこともあり、「ハリマン問題」にブログの
話題がしばらく飛んでしまったが、いよいよ日韓合邦がどんな経過で進んでいっ
たか、に話題を移そう。
まず日清戦争での日清講和条約(下関条約1895/4/17)で、韓国の独立を清国
に承認させたことに始まる。
日露戦争の日露講和条約(ポーツマス条約1905/9/5)で、ロシアに日本が韓国
を保護国化することを認めさせたことは先にも述べた。
1905/7/29には、フィリピン訪問の途中来日したウィリアム・タフト陸軍長官と桂太
郎首相兼外務大臣との間で、「桂・タフト協定」が結ばれた。これはT・ルーズベ
ルトが日本が南方に進出しフィリピンを脅かすかもしれないとの猜疑心を持って
いたので、日本にアメリカのフィリピン領有を認めさせその代わりにアメリカは
日本の韓国保護国化を認める、と言うものであった(「クリック20世紀、桂・タフト
協定」、http://www.c20.jp/1905/07taftk.html を参照)。
(続く)