目賀田種太郎(めがたたねたろう)は嘉永六年(1853年)駿河藩士の家に生ま
れている。そして17才(1870年、M3 ~1974年)で米国ハーバード法律学校へ
国費留学している。そしてさらに1875年~1879年には(Wikipediaによれば)
小村寿太郎ら米国留学生9名の監督として再度渡米している。1894/7(M27)に
は大蔵省主税局長として税制や財政制度を、以後十年間に渉って整備して
いる。
1904/8~1923/10には貴族院議員として活躍し、1904/10には先に述べたよう
に韓国政府の財政顧問となって韓国の財政経済を建設している。当時の李
氏朝鮮の財政は、とても財政として存在していたと言えるものではなく出鱈目で
あったために財政整理などとは言えるものではなく、無から建設していったような
ものであった。そして、1907/3には韓国統監府財政監査長官となっている。
当時の朝鮮半島の状況を視察した目賀田は、まさに驚天動地でぶったまげた、
とは「ねずきちの ひとりごと」の「朝鮮半島の再建 目賀田種太郎
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1196.html」に述べられているの
で、そちらを参照願いたいが、少しその内容を引用してみよう。
「当時の朝鮮半島の状況を視察した目賀田は、まさに驚天動地でぶったまげ
ます。
なにより民衆が、あきれるほどに貧しい。
民家のほとんどが平屋・わらぶきであり、梁(はり)の水平がとれている家自体が
ない。
家というのは、柱と梁が垂直になっているから四角く立体的構造になるのです。
梁(はり)がまがっていては、いつ倒壊するかもしれず、なによりまず危ない。
目賀田は、日本から大工さんを招き、まずはちゃんと柱と梁が垂直になる家の
見本をこしらえたりしています。
ではなにゆえ朝鮮半島の一般民衆がそこまで貧しかったかというと、支配層で
ある両班(ヤンパン)が、被支配層である常民(サンミン)を収奪し、土地を奪
い、苛斂誅求(かれんちょうきゅう)を加えていたのです。
シャルル・ダレの「朝鮮事情」には次のように書いてある。
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両班(やんぱん)は、世界中でもっとも強力にして傲慢な階級である。
彼らが強奪に近い形で農民や田畑や家を買うときは、ほとんどの場合、支払い
なしで済ませてしまう。
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支払いなしで土地や農作物を買い取るってどういうことかというと、土地や食い
物を出せと要求し、出さなければ出すまで鞭で打ちつづけた。
李氏朝鮮時代の鞭打ち
(Photo)
あるいは手足を縛りつけて、五体の骨を一本一本、折っていくなどということが
平然と行われていたのです。
参考記事≪李氏朝鮮の時代≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-659.html
とにかく両班(やんぱん)は、自分たちがカネや食い物、あるいは女がいなくな
ると、常民(サンミン)である商人や農民を捕えて、それらを要求し、要求に応え
なければ拷問した。
これではいつまでたっても一般民衆は貧しいままです。」
(続く)