李氏朝鮮は、高麗軍の武将・李成桂が明と図って高麗王を倒して自ら高麗王と
なり、1392年に建国した国である。明の協力があったため、当初は明からは朝
鮮王の代理としか認められていなかったが、1401年にようやく朝鮮国王として
冊封を受けた国であった。
朝鮮の由来も、李成桂が自分の出身地の和寧か、それとも古の箕子が封じら
れたと言う朝鮮にしましょうかと、明にご意見伺いをして「朝鮮がよい」と言われ
て朝鮮とした('10/10/28,NO.10参照のこと)ものだが、自分で自分の国の名前
も決められなかったわけなので、朝鮮人という言葉に日本人は侮蔑の意味も感
じているのである。しかも朝(貢物)鮮(少なし)と言う意味もあると言うことをど
こかで読んだこともあるので、尚更だ。
さて、1720年代ごろから朝鮮王朝は各党派間で抗争が続いて混乱していた。
そんな時機の1753年の李氏朝鮮の人口は730万人ほどであった。1840年~
1842年のアヘン戦争、1857年~1860年のアロー号事件では、列強の清国へ
の干渉が激しくなり、1860年の北京条約では沿海州がロシアに割譲されてい
る。しかし朝鮮は先に述べたようにどうしようもない国情だったので列強もそれ
ほど手出しはしなかったが、ロシアが沿海州を手に入れてからは、南下政策が強
くなり朝鮮に目をつけ始めていた、と言ったところが1850年代で、その頃の人口
がわずか750万人だった。
この間(1753年→1850年、730万人→750万人)の100年間では人口は殆ど
増加していないが、日本が第2次日韓協約を結び(1905年)、仕方なく朝鮮を
併合した1910年頃から朝鮮の社会情勢は安定し人口は爆発的に増え始め、
わずか30年間で2.5倍近くまで人口が増加しているのである。ここの数字で
は1906年→1940年で2.34倍となっている。と言ったところが当時の歴史的な背
景から見た朝鮮の人口増加の考察(?)でもある。
さて韓国のハーグ密使事件(1907/6/末)に懲りた日本政府は、1907/7/24、
第3次日韓協約を締結する。第2次日韓協約で、韓国は既に外交権は失って
いたが、この第3次日韓協約では統監の監督権は、内政にまで及ぶこととなっ
た。これは前に述べたことであるが、統監府の政治が韓国の内政にまで及ぶ
と、李氏朝鮮の近代化が一筋縄ではいかないことにあらためて痛感したことであ
ろう。その元凶が両班にあることは以前から判っていたが('10/12/15,NO.41
参照)、この何も生み出さない両班を追放して韓国を真の近代国家に変革させ
るためには、李氏朝鮮のより深く内部まで入り込んで徹底的に改革して行かな
いと不可能であることを、桂首相や小村寿太郎外相は悟ったことであろう。
1908/8/27より第2次桂内閣の外務大臣となっていた小村寿太郎は、
(Wikipediaによれば) 1909/3/30に桂太郎首相に「適当な時期に於いて韓国
の併合を断行すること」を柱とする対韓大方針案を提出し、閣議決定され、
天皇の裁可も得ている(1909/7/6)。これも伊藤博文が併合容認へと傾いたた
めに、その方向性は容易に決定された。1909/10/26に、伊藤博文がハルビン
駅頭において安重根に暗殺されたが、それが直接の併合の動機ではないが、
併合を急いだことには違いなかろう。
依然としてロシアは満州の北半分を監理しており、何時ロシアから復讐戦を吹っ
かけられるか判らなかったわけで、その押さえのためにも日露協約が結ばれ、
日本はいち早い韓国の近代化を急いで進める必要があった。韓国国内にも李
氏朝鮮のままでは近代化はできないと悟り、韓国を日本に併合してもらい、それ
により韓国の近代化を図らざるを得ないという考えが台頭していた。
1909/12/4に韓国の政治結社の「一進会」が、「韓日合邦を要求する声明書」
を、皇帝の高宗と首相の李完用に上奏している程である。しかしこれは対等合
併提案であり、大日本帝国としては到底受け入れられないものではあったが、
韓国内部でも今の李氏朝鮮のままではやがては韓国は滅亡する他ないという危
機感があったことも厳然たる事実であった。しかしこの提案は韓国の世論を硬化
させる事にもなったが、ある意味当時の世界情勢からすると、この併合反対は
身の程知らずと言うものでもあった。
(続く)