1910/6/3、日本では「併合後の韓国に対する施政方針」が閣議決定さ
れ、1910/7/8には第三代統監の寺内正毅の設置した併合準備委員会の処理
方針も閣議決定される。そして韓国首相の李完用に対して、1910/8/6、併合を
提案する。韓国政府としても学相(文部大臣)一人の反対はあったものの、大勢
としては日本による韓国の併合には大賛成であった。8/22の韓国の御前会議
で李完用首相が条約締結の全権委員に任命され、1910/8/22に漢城にて韓国
併合条約は寺内正毅統監と李完用首相により調印された。そして8/29に裁可
公布され大日本帝国は大韓帝国を併合した。
これにより大韓帝国は消滅し、朝鮮半島は大東亜戦争が終わるまで日本の統
治下におかれた、とWikipediaは続けている。これにより大韓帝国と韓国統監
府は廃止され、新たに朝鮮全土を統治する朝鮮総督府が設置された。
韓国内の多くの知識階級は日韓合邦を期待していた。次のその例を提示する。
これは
「こん そして併合へ・・・」(http://konn.seesaa.net/article/11408909.html)より
の引用である。是非ここも参照願う。
[ 朝鮮時代、全権大使としてアメリカに渡った李成玉が各民族に接してみると、
朝鮮人は米国人に軽蔑されているインディアンより劣り、その他メキシコ、インド
などの民族より劣っていることを知り、衝撃を受け、次のように述べている。「現
在の朝鮮民族の力量をもってすれば、とても独立国家としての体面をもつことは
できない。亡国は必死である。亡国を救う道は併合しかない。そして併合相手
は日本しかない。欧米人は朝鮮人を犬か豚のように思っているが、日本は違
う。日本は日本流の道徳を振り回して小言を言うのは気に入らないが、これは
朝鮮人を同類視しているからである。そして、日本人は朝鮮人を導き、世界人
類の文明に参加させてくれる唯一の適任者である。それ以外に我が朝鮮民族
が豚の境涯から脱して、人間としての幸福が受けられる道はない。日韓併合が
問題になるのは、変な話だ。我輩の併合観は欧米人の朝鮮人観を基に考察し
たのだ。」
朝鮮全権大使 李成玉 「李完用侯の心事と日韓和合」 ]
「こん そして併合へ・・・」(http://konn.seesaa.net/article/11408909.html)より
これを見ると、欧米人の間では朝鮮人は豚の境涯(境遇)と見られており、豚の
境遇から脱却する術としては、日本が韓国を併合して近代化を図ってくれること
しかない、と教養のある朝鮮人の間では認識されていたことが判ると言うもので
ある。
そしてここには次のような指摘もあるので、あわせて引用させてもらう。
[1910年、日本が韓国を併合したのは(韓国の)新皇帝が「請願」したからで
あった。パールハーバー以前は、日韓関係について語る歴史家は、日本が欧米
列強から教わった国際関係の規則を、実に細かいところまで几帳面に守って
いた、といってほめるのだ。トリート教授によれば、日本は「一つ一つの手続きを
外交的に正しく積み上げていた。そして、・・・宣言ではなく条約で、最終的な併
合を達成したのである。」
事実、列強の帝国建設はほとんどの場合、日本の韓国併合ほど「合法的」手段
を踏んでいなかった。
アメリカの鏡・日本ー ヘレン・ミアーズ
何はともあれ、日韓併合は合法であった事実も併せて記憶しておいて下さい。
これも無効だといいだす朝鮮人がいるのも閉口します。]
さて目賀田種太郎の業績の説明に移ろう。
(続く)