日韓併合100年(171)

近代国家となるには、税金の徴収が円滑に行われていなければならない。そし

てその基礎となるものは、土地制度が成立していなければならない。李朝末期

のこの体たらくでは、とてもじゃないが朝鮮は近代国家への脱皮は不可能で

あった。


黄文雄
の「朝鮮は日本人がつくった」によると、


朝鮮総督府は1910/3月に土地調査局を開設し、全国的な規模での土地調査

始めた。この責任者が目賀田種太郎であった。この土地調査は、1910(M43)

から1918(T7)年にかけて、当時のお金で200万円の予算で実施されたと言

う。そして土地所有者、価格、地形、地貌、坪数、などを整理し、地図作成を行っ

ていった。当時は、課税されている土地の外に課税されていない脱税地が半分

近くあり、さらには公簿にも記載されていない隠田(おんでん)も多数存在して

いた。課税されない土地や隠田は、両班や地方官僚などが横領したもので

あった。だから国税は減る一方で、両班の専横が横行していたのであった。

さらには土地の広さは、その収穫高が単位であったため、徴税精度もいい加減

なものであった。これを「結負(けっぷ)」制と言う。


しかしこの朝鮮総督府の全国土地調査によって、穏結(おんけつ、隠田)が一掃

され結負(けっぷ)に代わり町反・坪制に変わった。この調査により、土地面積

は、187万余人、487万余町歩と、公募土地面積272万余町歩から倍近く増大

したと言う。この公明正大な土地調査は、それまで甘い汁を吸ってきた両班

ちを大いに困らせることになる。そのため不服申し立ても多く、朝鮮総督府はそ

れらの不服申請も、高等土地調査委員会1920年(T9)まで受理して解決して

言った。けっして問答無用方式で、土地調査を行っていったものではないので

ある。


この結果黄文雄氏は、さらに次のように続けている。


これらの障害を受けながらも、この近代的土地調査は公正な土地・租税制度を

確立することになり、隠し田を一掃し、伝統的な土地紛争に終止符を打った。

また、五万分の一の地形縮図をも完成させることができたのである。これは、近

代社会の社会的基盤を建設するのに大きく貢献した画期的な事業だったの

だ。

・・・・・

土地調査と地権の確立は、近代国家には欠かせない一大条件である。日本で

は400年前に、すでに太閤検地による土地調査と地租改正が行われていた。

その後も、1873年(明治六年)の地租改正、1880年(明治十三年)の地租修正

などにより、近代的な土地制度が確立されていった。

   

元をただせば李氏朝鮮王朝と両班たちの苛斂誅求(税金を厳しくむごく取り立

てること)が、当時朝鮮の人口の80%以上だった農民を困窮のどん底に陥れて

いたのであった。両班たちは極度に労働を軽視し、何もせずに農民から収奪を

するだけの無為徒食の集団であったから、革命が起こらない限り李朝を救う道

はなかった。あるとすれば、どこかの国に、助けてもらうしか方法はない、と黄文

雄氏は言っている。その通りであり、李氏朝鮮は潰れてもおかしくなかった状態

であった。


だから、左記に紹介したように('11/10/10,NO.168参照)朝鮮の財政の2/3

を、日本人の税金から補填しながら、崩壊寸前の朝鮮をもらい受け、半島の民

生をはかっていったのである、と黄文雄氏は言っている。

  
だから、日本はきちんとした土地調査を行い、国の基礎を形作ろうとしたので

ある。しかしこれだけでは、国の基礎は形づくれない。それには人自身が主役

に躍り出なければならない。8割以上が農民だった朝鮮では、農民の意識改革

が急務である。

(続く)