日韓併合100年(172)

李朝末期ではこのように社会的、経済的混乱が常態化していたため、民族意識の高揚、

進取の精神を阻害し、民族の自主独立精神は完全に消失してしまっていた。自暴自棄に

なった農民達はあちこちで暴動を起こしていたのだ。農民自身の積極性の無さは、大問題

であった。そのため朝鮮総督府は、「勤労愛好」「自主独立」「報恩感謝」の3目標を掲げ

て、
農民の覚醒を図った。
 


朝鮮での識字率は、1910当時10%程度だったと言う。しかも朝鮮を支配していた両班

たちは、宗主国である中国の漢字をもっぱら公用語として使用し、そのことを誇りにして

いた。そのため、国語である
朝鮮語・ハングルは愚民の言葉として軽視され、諺文(おん

もん)と言われて婦女子の言葉とされていた。だから文字を使用できたのは両班だけであ

り、しかもそれは漢字であった。この辺の事情は、シャルル・ダレ神父は「朝鮮事情」の中

で次のように言っている(
黄文雄氏、朝鮮は日本人がつくった より引用)。

 

中国と朝鮮の間には、学問研究と科挙において二つの明確な相違点がある。その一つ

は、朝鮮における学問は全く民族的なものではないという点である。読む本と言えば中国

のもので、学ぶ言葉は朝鮮語ではなく漢語であり、歴史に関しても朝鮮史はそっちのけで

国史を研究し、大学者が信奉している哲学体系は中国のものである。


写本はいつも原本より劣るため、朝鮮の学者が中国の学者に比べてかなり見劣りする

のは、当然の帰結である。


これによりもっと大きなもう一つの差異は、朝鮮では自らの特権に過度に執着し、特権維

持のために絶対権力を発揮する多くの両班が、国王と人民との間に存続している点である


 

そして先に、「4人の外国人が見た韓国併合前の朝鮮、

http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/heigouji-chousen.html#1


に言及したが、その4人の1人に「イザベラ・バード」女史の「朝鮮紀行」が引用されている。

彼女は結婚して「「イザベラ・バード・ビショップ」(?)と
ビショップ夫人となり、ビショップ夫人

としての文献引用が多い、と記載されているが、黄文雄氏も上記の書物で次のように引用

している。


 

ビショップ夫人も、韓国人のハングル軽視について、「朝鮮人は自分の固有のハングル

文字を軽蔑して、中国文字である漢字のみをただひたすら尊重するおかしな国民である」

と指摘している



こんな状況であったから朝鮮の識字率1910年当時10%しかなく、教育制度も整備されて

いなかった。農民達の無学文盲も致し方なかった。だから
1906初代統監に就任した

藤博文
大韓帝国の官僚に対し「あなた方は一体何をしてきたのか」と叱責し学校建設

を改革の優先事項とした。伊藤が推進した学校建設事業は併合後も朝鮮総督府によって

継続され、朝鮮における各種学校
1940年代には1,000校を超えていた。小学校も併合直

前には
100校程度だったものが1943年には4271校まで増加、朝鮮人識字率1910

10%から1936には65%に上昇した、とはWikipediaに記載されている伊藤博文をはじ

めとする日本政府が韓国に対して
近代教育を施した状況である。


こんなわけで当然朝鮮語(ハングル)何ぞは普及もしていなかった。そのハングルを普及さ

せたのは、日本であった。日清戦争に勝った日本は、朝鮮を清国の属国から独立させ、そ

の時初めて公文書での漢字の使用を止めさたが、完全に漢字からハングルへの転換は難

しく、
漢字・ハングル交じりの新訂国文を公布し、(ハングルの)使用を奨励することと

なった。



黄文雄氏の「朝鮮は日本人がつくった」によれば、ハングルの表記を科学的に体系化し言

語として完成させたのも、金沢庄三郎と小倉新平の両博士を中心とする
日本人学者たち

であった。そして日韓併合以降ハングルを韓国の全国民に教え始めたのである。朝鮮の

文化はずっと漢字の文化であり、従来ハングルは除外されていたが、
寺内正毅総督が着

任してから一年後の
19118月に「朝鮮教育会」が発足し「朝鮮語及び漢文」を教育するこ

とが決まり、同時に「朝鮮教育令」によって、普通学校、高等普通学校女子高等普通学

校に、「朝鮮語及び漢文」の毎週の授業数を規定した。


韓国人が「日帝36年」で自国の国語を奪われたと主張するが、それは真っ赤な嘘である。

日本は国語を奪ったどころか、ハングル文字を普及させ、韓国独自の文化を保護し、

近代教育を施したのである。むしろ、自国の国語捨ててきたのは朝鮮・韓国人だった

のである、と黄文雄氏は断言している。このような事情をみれば、全く肯(うなず)けると言う

ものである。

 

このような経過の中で1930年代韓国農村新興運動を起こすこととなる。特にその中

心となって活動したのが、第7代朝鮮総督となった宇垣一成であった。

(続く)