日韓併合100年(180)

黄文雄氏によると、朝鮮総督府は、営林署を設立して、森林保護令、幼齢林育成、造林

補助、病害虫駆除、森林組合林業試験場の整備、地方官庁職員の増員などを次々と

実施していった。そして1924(T13)年には、国有林区の調査事業が完了している。そしてそ

国有林を無償で漸次民有林としていったのである。けっして日本が森林を奪っていった

のではなく、その逆で、次々と植林を進め森林を創っていったのである。


そして[
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog056.htmlによれば、朝鮮

総督府は1911年からの30年間で、5億9千万本の植林を行った。朝鮮全人口の一人当た

り約25本と言う膨大な数である。

内村鑑三の日記には、ある朝鮮人から日本人が毎年沢山の有用樹木の苗木を植えてい

ることを感謝する手紙をもらって非常にうれしかったと書いている
と記されている。


そして植林による禿げ山対策とともに、1907年よりソウル近郷の砂防工事から始まり、全

国規模で実施された。1919年には朝鮮半島の大河川の流域調査が実施され、1933年か

ら1942年の10年間で、15万ha以上の砂防工事が実施され、砂防のために5億6千万本

を植栽し、工事の総額は4,274万4千円を費やし、工事人員は延べ5,385万4千人と言う大

事業となったのである。


そのため半島恒例の洪水は減少し、水田面積も1910年の84万7千町歩(約84.7万ha)か

ら時代は上記の年代よりは早いが、1928(S3)年ごろには162万町歩(約162万ha)に倍増

したのである。だから米も増産され朝鮮の人口も倍増できたのである。

黄文雄氏、「韓国は日本人がつくった」より)


この河川工事の過程で、朝鮮総督府は大規模な水力発電を建設し、総合的な国土

開発
を推進していったのである。


朝鮮半島では地下資源が豊富である、などの噂があったが実際に朝鮮総督府が調べてみ

ると、これが真っ赤な嘘で、地下資源にはほとんど見るべきものはなかった。唯一利用でき

る資源といえるものは、「」しかなかったと言っても過言ではなかった。そのため朝鮮総

督府は、水力発電を利用して総合的な国土開発に着手した。


現在の北朝鮮北部には、中朝国境を流れる鴨緑工へ向かって、数多くの川が流れてい

る。北朝鮮の北部中央よりやや東側に長津(チャンジン)、そのすぐ東北に赴戦(プジョン)の町

がある。そこにそれぞれ川が流れている。その赴戦江(ふせんこう)が長津江(ちょうしん

こう、チャンジンガン)と合流して鴨緑江に流れ込んでいる。さらにはこれらの川の東には、

虚川江(きょせんこう)が鴨緑江に流れている。これらを堰き止めて、日本海側への急峻な

地形を利用して、日本海側へ水を落として発電所をつくることを考えた。長津湖は長津江

ダムによって堰き止められた人造湖であり、赴戦湖も赴戦江を堰き止めてつくられた人造

湖である。


「日本は朝鮮半島に何を残したか-終戦後半島に残った資産」


http://blogs.yahoo.co.jp/success0965/7316198.html によれば、


この計画を最初に思いついたのは、電気技師の森田一雄氏と土木技師の久保田豊

です。大正13(1924)年、両氏は朝鮮半島の5万分の1の地図を見ながら、「鴨緑江の水

を逆方向の日本海側に落とせば、巨大な電力が得られるのではないか」、と考えました。

朝鮮半島の東側の急勾配に着目した発想でした。

この計画を大手電気化学工業日本窒素肥料社長、野口遵氏に持ち込んだところ、

野口氏も賛同し、その資金援助によって朝鮮北部の電源開発がスタートしました。

 
野口遵(したがう)は、Wikipediaによれば、日窒コンツェルンを一代で築いた「電気化

学工業の父」とも「朝鮮半島事業主」とも言われている実業家で、旭化成積水化学

業、積水ハウス信越化学工業の実質的な創業者である。1896年に帝国大学工科大学

電気工学科(現東京大学工学部電気工学科)を卒業、1906年に曽木電気を設立し、鹿児

島県大口に曽木水力発電所を開く。これが日本窒素肥料をはじめ上記の企業の前身と

なる。1924年朝鮮半島進出を決め、2年後に朝鮮水力電気、朝鮮窒素肥料の2社を設

立している、と記述されている。野口は当時、イタリアから「空中窒素固定法」の特許を

買っていたが、それには莫大な電力を必要とした。そのため日本では電力が不足し、この

特許をもてあましていたところに森田と久保田は、朝鮮での水力発電の話を持ち込んだ、

と言うわけであった。


なお久保田豊は、1914(T3)年に東京帝国大学土木工学科を卒業し、内務省で河川改

修工事に従事し、やがて水力開発に傾注し野口の下で上記の朝鮮の電力事業開発にの

めりこみ、彼の手がけた鴨緑江水豊発電所(1941年完成、70万kw)は当時ダム体積

で世界一を誇った。地図で見ると、新義州から60~70km北東に水豊(すいほう、スプン)の

町があり、大きな湖がある。これが70万kw(10万kw×7基の発電機)の水豊ダムであろう。

黒四ダムが33万5千kwであることからして、この水豊発電所の馬鹿でかいことがわかるで

あろう。これらの電気は今では中国からの援助の見返りに半分は中国へ送られているとい

うが、残りの半分の電気でも朝鮮の経済に役立っていることであろう。ただしメンテナンス

が行き届いていないため、効率はとても悪くなっているという。久保田は後に日本工営

式会社をつくるが、これらの日本が北朝鮮に残した莫大な資産は、日本に返還されるべ

きもの
である。


「久保田 豊」 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kubota_yu.html 

北朝鮮は日本に補償を要求できない」 http://wwwi.netwave.or.jp/~tn-mgm/kita.htm 

を参照のこと。


森田一雄氏
は、その時、早川電力を退職した直後で、知人に勧められて朝鮮の水力発電

の可能性を調べ始めた。そして土木コンサルタント事務所を開いたばかりの久保田豊

事務所を訪ねたのであった。森田は日窒の野口とは、東京帝国大学時代同級生

あったので、資金援助を得るために野口に話しを持ち込んだのであった。


(続く)