日韓併合100年(183)

創氏改名とは何か」(http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunidai) によれば、次

のような説明が載っていた。


「 朝鮮人の姓は、周知のように結婚しようが何しようが変わることがない、とい

うのが古来の慣習である。それは朝鮮の「姓」が父系の血縁関係を示すもの

で、「姓」が違うということはその関係がないことを意味し、「姓」を変えるというこ

とはそれを否定することを意味している。だから朝鮮人の家庭では、結婚した女

性は嫁ぎ先とは血縁がなく、また自分の出自の父系一族とのそれを否定できな

いから、「姓」を変えることはない。従って例えば金さんという家があったとした

ら、祖母は朴さん、母は李さん、兄嫁は鄭さん、妻は張さん、長男の嫁は呉さ

ん、次男の嫁は崔さん‥‥というような具合に名前が違ってくる。

 そこで、一つの家の中で法律上の名前の違う人が存在するというのを、日本

風に家族名として「氏」を持て、そしてその「氏」はその家で決めて届け出よ、とい

うのが創氏改名令の趣旨である。」


朝鮮国内をそれなりに管理するには、家族単位で韓国人を把握する必要があ

るのは、自明の理である。誰の子供かも、なかなか解りづらいようでは困るので

ある。社会構成管理上どこの子かわからなかったり、両親は誰かわからなかった

りすることは、非常に厄介なことであったろう。この子は誰が面倒を見ているの

か、又はこの老婆の家族は誰なのか、それなりに簡単に理解できるほうがはる

かに安心である。これが上記のように同一家族でも、名前(氏名)が違ってくると

甚だ厄介なことは想像がつく。簡明な戸籍が必要なのである。


創氏改名の真相」
(http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-

su/jkorea/nikkan/0311.html
)によれば、朝鮮では男系による血族集団制であると

いう。即ちその発祥地ごとに血族集団をつくっていたという。その発祥地を本

(又は本貫)と言い、その発祥地(本貫)の中でそれぞれ血族集団があった。

それぞれの血族集団を分ける言葉が、であった。そのため同本同姓での結

婚は禁止されていたという。さらに「姓不変」が原則であった。そのため創氏

改名
では、「姓を変える」のではなく、新しく「氏」をつくるということとなったので

ある。だから朝鮮固有の本貫である「姓」を変えるのではなく、新しく家族単位

の「氏」をつくったのである。


だから朝鮮・韓国の現在の教科書で、「
日本は朝鮮人の大切にしていた姓を

奪った
」などと、ほざいているようだが、そのような事実は全くなかったのであ

る。朝鮮人の好きな姓はそのままにして、その下に家族単位に氏を作るので

ある、だから創氏なのである。

 

更には、黄文雄氏の「韓国は日本人がつくった」によれば、
 

創氏改名のきっかけとなった理由のひとつに、満州に移住した朝鮮人からの

要求や嘆願があったことは、あまり知られていない。・・・

日韓合邦当時、満州には約150万の朝鮮人がいた。彼らは絶えず漢人から圧

迫され、搾取され、農奴に近い生活を強いられていた。やがて朝鮮人狩りが起

こる。朝鮮人をもっとも嫌ったのは張作霖で、「満州には朝鮮人をひとりも入れさ

せない」と息巻いていたほどである。この朝鮮人迫害は、漢人・韓人たちの満州

資源争奪の争いを助長した。

このような歴史背景下にあった朝鮮人にとって唯一の救いは、当時五強のひと

つであった大日本帝国の臣民になることだった。唯一、中国人に対抗できる切

り札であったため、朝鮮人たちはすすんで創氏改名を強く要求したのであ

る。日本こそが、朝鮮人にとって合邦国家の民族の誇りであり、中国人に対抗で

きるただ1つの勢力だったのだ。


だから1931年の満州事変以後、関東軍が関東州(遼東半島一帯の租借地)か

ら北上してきたのをもっとも喜んだのは朝鮮人だった。彼らはいたるところで日

章旗を掲げ、関東軍を歓迎し、日本人として集まって日本国民としての誇りと意

識を強く持っていた。日本国民になれば漢人にいじめられることもない。満州

変以後は、農民だけでなく、反日ゲリラもつぎつぎと武器を棄てて日本側へと転

向したのだ。」


2003年(H15)5月31日
の東大五月祭で、当時自由民主党政調会長であっ

麻生太郎は、「21世紀日本の国家運営」と言う講演を行っている。その内

容は次のようなものであった。

(続く)