日韓併合100年(184)

よくぞ言ってくれた(http://www.tamanegiya.com/nonbee15.5.html)
5月31日土曜日雨 ×××
http://www.sankei.co.jp/news/030601/0601sei002.htm

 自民党麻生太郎政調会長は今日の東大・五月祭での講演で、支那や朝鮮から批判さ

れる歴史認識問題について「歴史認識を一緒にしようと言っても、隣の国と一緒になるわ

けがない」と述べ、根本的解決は困難との見方を示したそうです。自国の英雄が、隣の国

にとったら大悪人という事はよくある話です。チンギスハーンなどもそうでしょう。

 また、麻生氏はかつて南朝鮮を訪問した時のエピソードとして「創氏改名は(朝鮮人が)

名字をくれと言ったのがそもそもの始まりと言ってやりあったら、年寄りの韓国人があなた

のおっしゃる通りだと言った」と紹介した。

 日本が統治時代に大学をつくったことなども指摘し「こちらも正しいことは歴史的事実とし

て述べた方がいい。日本の戦後の外務省、政治家が怠ってきたことだ」と強調したそうです。

さんざん言われてきたことですが、日本程当時の朝鮮のことを思って政治をおこなった国

はありません。

逆恨みもいいとこでしょう。当たり前の事をいってどこがわるいのでしょう。

まあ、この正常な発言に対してすぐに南朝鮮のマスコミと日本の反日マスコミのバカがいろ

いろ騒ぐでしょう。

・・・       なお、「・・・sankei.co.jp/news/・・・」のニュースはすでに削除されてアク

セスできない。


この件は、Wikipedia
麻生太郎http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E5%A4%AA%E9%83%8E#cite_note-40にも記載されているので、一読されるとよい。

 
創氏改名」は、当然法律によって行われたものであったが、1939(S14)年

11月10日・朝鮮総督府政令第19号で、朝鮮民事令11条の第3次改正が発布

され、1940年(S15)の皇紀2600年を寿ぎ2月1日の紀元節の日を以って、

台湾人と朝鮮人に対して「この目出度い日を祝い、希望者は日本式の氏名に変

えることを許す」と言うものであった。


先に挙げた


創氏改名の真相」
(http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/0311.html)

によれば、「宮田節子」なる人物が、「この創氏改名徴兵制の導入が目的で

あった」などと暴論を吐いているようだあるが、そんなこととは全く関係がなく上

記のように麻生太郎の言っているように、そのような希望が強くあったので

希望者はどうぞ」と言うものであった。だからこの「創氏改名」はあくまでも

任意」で、自己申告制であった。だからかなりの朝鮮人が申告していないので

ある。


宮田節子」なる人物は、1958/3月の早稲田大学文学部史学科の出身で、卒

論が朝鮮の独立運動といわれる「3.1運動」がテーマだった関係上、熱心に史

料探しに奔走し東京丸の内ビルの「友邦協会」にて「阪谷文書」を発見する。

友邦協会はかつて総督府の高官たちの集まるところで、阪谷文書は大蔵次官

であった阪谷芳郎が1919/5~6月に朝鮮各地を回り資料収集したものであった。

そして当時友邦協会に詰めていた穂積真六郎(朝鮮総督府の殖産局長だった

人物)と「朝鮮近代史料研究会」を立ち上げて、1959/1~1962年の4年間にわ

たって朝鮮総督府の高官・官僚などを実際に呼んで朝鮮総督府の研究を続けた

という。彼女の研究姿勢には誠に頭がさがると言うものであるが、ただひとつ残

念なことは、彼女の基本となる依って立つところが間違っているのではないかと

感じられるところである。それは、朝鮮総督府たるものが全くの独善的植民地政

策を実施する行政機関である、と言う確信から出発していたのではないか、と思

われたからである。だからあたかも低脳な朝鮮人の言う「七奪」があったというこ

とを前提に、ものごとを進めているのではないかと言う風情が(小生には)感じら

れるからである。


それは、かつての総督府の高官たちが、この研究を通じて「日本の同化政策

矛盾が自ずと明らかになるにも拘らず」、「基本的には彼らは過ちを犯したとは

考えていなかった。朝鮮に対してはよい仕事をしたと言う自負心をもっていた。」

と言う感慨を持っているからである。


彼女は現在学習院大学東洋文化研究所客員教授であり、ここには当時集めた

膨大な史料や研究結果を収めた「友邦文庫」があり、彼女は多分今でも各地に

呼ばれて講演などを行っているようで、日本の朝鮮統治に対する間違った考え

を普及させないよう願いたいものである。
(「ハンギョレ・サランバン」宮田節子イ

ンタビュー
http://blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/985344.html


さて其の創氏改名の届出は、そのため1940/2月から4月まだの3ヶ月間では、

わずか7.6%にすぎなかったが、多分もろもろのキャンペーンを実施したのであろ

う6ヶ月後には、322万戸の80%に上昇している。この届け出た80%の家はそ

の家族全員が届け出た氏、例えば「金川」なら金川と創氏されたのである。

これを「設定創氏」と言い、届け出なかった残りの20%は法律でその戸主の姓

が「金」なら全員「金」と言う「氏」と定めたのである。これを「法定創氏」と言う。

しかしながらこの20%の人たちはそのまま朝鮮名を使用していたため、学校や

軍隊、炭鉱などで朝鮮名の人物が数多く存在し、そのことを日本政府も認めて

いたのである。例えば洪思翊(こうしよく)日本陸軍中将や朴春琴衆議院議員

どは設定創氏はしていない。

(続く)