尖閣諸島問題その2(12)

さて少し横道でもないが横道に逸れたが、先に掲げた中国の侵略年表の話に戻そう。


まず、
西沙諸島への中国の侵略状況。(1974.01.15~20)

1974.01.15~20にかけて、中国は西沙諸島(パラセルParacel Islands)に軍事侵攻して、

ベトナム軍を排除して西沙諸島全域を占領してしまった。これを西沙諸島の戦いと言う。


もともと西沙諸島は、ベトナムを植民地としていたフランスが支配し1938年には常駐部隊

を置いていたが、第1次インドシナ戦争1954年に終結しフランス軍が去ると1956年

には中国が同諸島の東半分を占領してしまい、西半分は南ベトナムベトナム共和国)が

支配することとなった。と言ったところが「西沙諸島の戦い」までの状況であった。

その後1965年から1975年にかけてのアメリカと北ベトナムとのベトナム戦争の最中の

1971年には、中国軍は艦隊を派遣し多数の軍事施設を建設している。これも南ベトナム

の弱みに付け込んだ中国軍の侵攻であったが、ベトナム戦争が終結するドサクサに紛

れて、1974年1月11日に中国政府は西沙諸島全域が自国領であるとの声明を発表して

いる。


そして1974年1月15日中国軍は大型漁船(と言っても半分は軍艦仕様なのであろう)

2隻を派遣し、南ベトナムが支配する西沙諸島の永楽群島のロバーツ島中国国旗を

掲揚
させた。これを哨戒中の南ベトナム海軍が見つけ、中国漁船2隻の退去と国旗の撤

去を命じたが、中国側は従わなかった。このため両国とも増援部隊を派遣し、一触即発の

小競り合いが始まった。業を煮やした南ベトナム軍は1974年1月19日、Wikipediaによ

れば、広金島に40人を上陸させ同島に居座る中国軍と銃撃戦となりとうとう軍艦同士の戦

いとなったが、小回りのきく中国艦船が優勢となり且中国本土に近いこともあり航空機の

支援のもと南ベトナムの支配する西沙諸島の各島に中国軍が上陸し西沙諸島全域を占領

してしまった。


これで西沙諸島からは南ベトナムの勢力は中国軍に追い払われ、西沙諸島全域が完全

中国の支配化に落ちてしまった。


更にWikipediaによれば、「
漁船を突出させて紛争を引き起こす、中国の常套手段が成

功する形となった。中国軍は、永興島
ウッディー島に4階建ての建物やヘリポートを整

備し、戦車部隊やミサイル艇を駐留させるなど要塞化を進めた。ベトナム戦争終結後、

ベトナム統一を遂げたベトナム社会主義共和国(旧北ベトナム)政府は、中国に対して

西沙諸島の領有権を主張して外交交渉を求めたが、中国政府は応じていない。1988年

は2,600m級の本格的な滑走路を有する飛行場まで完成させ、南シナ海支配の戦略拠点

としている。同年、中国軍ベトナム支配下にある南沙諸島(スプラトリーSplatry諸

島Islands)にも侵攻するとベトナム軍を撃破し勢力化においた。(南沙諸島海戦
」と述べ

ている。これが共産党中国のやり方なのである。


だから日本領土の尖閣諸島や沖縄群島をどのようにして中国の脅威から守って行くかは、

喫緊(きっきん、差し迫った)な最重要の課題なのである。中国は、いずれの場合もフラン

ス軍やアメリカ軍が撤退すると同時に、侵攻を開始していることを見ると、沖縄の米軍

日本にとってもアメリカにとっても、最も重要なプレゼンスなのである。このことを忘れては

ならない。


これらのことを鑑みるに、2010年9月7日尖閣諸島中国漁船衝突事件での中国漁船船

長逮捕
は、何ら間違った処置ではなかった。ただ大きな間違いは、中国の恫喝に驚いた

管政権が中国人船長を早々に釈放してしまったことである。しかもあらゆる便宜を中国と

船長に与えて、中国に送り返したのである。馬鹿でないかい、民主党政権は。

次のブログでも、中国の南シナ海への侵略の様子が述べられている。将にその通りで、強

烈な抗議が無いと見ると更に中国は侵略をエスカレートさせる、と言うのが中国のやり方な

のである。是非ご一読願う。

 
 

中台紛争を見る目 中国編
http://www.h6.dion.ne.jp/~ct-labo/eye/china%20domestic.htm#2-1

以下の文章は、上記の第2章 中国の現状と将来 国外からの視点 の2-1 脅威論の

途中からの文章です。

 中国とその周辺国との紛争地域である南沙諸島西沙諸島での中国の動きを見てみま

しょう。


中国は
1971年に入ってから、突然西沙諸島に50以上の建物を建築するなどの動きを

見せました。

そして、これを起点として、ベトナム戦争中の
1974年、アメリカ軍の撤退によりベトナム

政府の崩壊
を見越した
中国は海軍陸戦隊を派遣し、それまで南ベトナム実効支配して

きた
西沙諸島の永楽群島を占領しました。

その後すぐに、施設の建設に取り掛かり、現在ではトーチカや対空砲台などに守られた拠

点となっています。

 次に南沙諸島を見てみると94年フィリピン実効支配してきたミスチーフ環礁に中

国が漁民を装って上陸し、「
漁民の避難施設」を建設、フィリピンからアメリカ軍が撤退

ることを見越しての進出でした。

さらに、98年、中国は軍艦の護衛をつけながら同環礁に岸壁やヘリポート、レーダーサイ

トや対空砲の設置スペースなどの軍事施設を建設しました。フィリピン政府はもちろん抗

議しましたが、中国側は取り合わず、「漁民施設の補修を行っているだけ」と回答しまし

た。かくして、フィリピン政府は、一度アメリカ軍を自国から撤退させたにも関わらず
中国

の脅威
のためにアメリカ軍を再度呼び戻さざるを得なくなりました
(続く)