尖閣諸島問題その2(55)

少し長くなるが、当ブログなどで言及した「尖閣諸島が日本固有の領土である」事を示して

いる事柄を時系列で並べてみる。「固有の」と言う意味は、それまでどこの国のものでもな

かった、と言うことである。これがあれば、馬賊・匪賊国家である中国共産党国家の心理戦

・世論戦・法律戦に反論できる。

 
 
1561(永禄4)年  明の使節・郭汝霖(かく・じょりん)が皇帝に提出した上奏文に、尖閣

諸島の大正島から琉球となる、書かれている。明代の『石泉山房文集』。(2012.8.31,NO.

34参照)

日本では川中島の戦いのあった年で、室町幕府第13代将軍足利義輝の時代。


1683(天和3)年
  清の使節・汪楫(おうしゅう)は、漢詩で、台湾の馬祖島を過ぎれば中

国領から離れる、と詠んでいる。当然尖閣諸島は中国領ではない。その後編纂された清

の地理書『大清一統志(だいしんいっとうし)』は、現在の基隆市が台湾の北東端であるとし

ている。だから尖閣諸島は中国領ではないのである。(2012.8.31,NO.34参照)

天和3年は、日本では第5代将軍徳川綱吉の時代。


1856年(安政3年)
  古賀辰四郎は、製茶業の古賀喜平氏の三男として、福岡市八女

市字山内に生まれる(2012.09.21,NO.49参照)。

篤姫で有名な第13代将軍徳川家定の時代、幕末。1868年から明治時代となる。


1879年(明治12年)
  古賀辰四郎23才の時、八女茶販売のため沖縄に渡る。そこで夜

行貝に目をつけ、高給ボタンの材料として輸出し莫大な財を成す。


1884年(明治17年)頃
  から古賀辰四郎は、尖閣諸島などの探検を行い、魚釣島、久

場島などでアホウ鳥のもう、綿毛、べっ甲、貝類などの採取を進める。


1885年(明治18年)
  古賀辰四郎の借地契約の請求により、明治政府沖縄県当局を

通ずるなどして、再三にあたり尖閣諸島の現地調査を行う。(2012.8.27~28,NO.30~31)


1891年(明治24年)
  熊本県の伊沢弥喜太が魚釣島久場島に沖縄漁民と共に渡り、

海産物とアホウ鳥の採集に成功する。その後1893年にも、何回かに分けて30名程度の

日本人が魚釣島久場島に赴くが、長く留まることはなかった。
http://senkakujapan.nobody.jp/page053.html より)


1894(M27)年7月25日~1895(M28)年5月8日
  (台湾5月29日~11月30日) 日清戦争


1895(M28)年1月14日
  明治政府は、尖閣諸島が無主の地であることを10年にわたり

確認したため、日本国の領土に編入する。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/qa_1010.html


1895(M28)年4月17日
  日清講和条約下関条約)調印、朝鮮の独立・遼東半島・台湾・

澎湖諸島の日本への割譲(下関条約第2条)が決まる(尖閣諸島は含まれず)。同年5月8

日批准書交換、条約発効、停戦。(2012.8.27,NO.30)


下関条約第3条では、「前条の付属地図の境界線はこの条約批准後直ちに日清両国より

各二名の境界画定委員を任命し実地について確定するものとする。」とあるので、尖閣

島が含まれていないことは確かな事実である。(2010.12.4~12.10,「日韓併合100年」

NO34~39を参照のこと。)


1895(M28)年4月23日
  露独仏の三国干渉。同年5月5日に三国に遼東半島の放棄を

伝える。


1895(M28)年5月29日~1895年11月30日
  台湾平定完了(日清戦争完全終了)


1895(M28)年6月10日
  古賀辰四郎が「官有地拝借願」を内務省に提出。(Wikipedia

より)


1896(M29)年
  古賀辰四郎明治政府より、魚釣島久場島・北小島・南小島の30年

間の無償貸与
を受ける。魚釣島に、鰹節工場の建設など開発に着手する。


1897(M30)年~
  大規模投資を実施し、魚釣島久場島に家屋、諸水施設、船着き場、

桟橋などを構築し、排水溝など衛生環境の改善、海鳥の保護、実験栽培、植林などを

行った。


1904(M37)年
  鰹節工場の他にアホウドリの羽加工工場、鳥フン石採掘場などを設け

て、魚釣島古賀村(通称)が出来ていた。


1909(M42)年
  古賀村の戸数は99戸を数え、定住者は248人に達した。以上の功績に

より、古賀辰四郎藍綬褒章を受章している。


1912(M45)年1月1日
  孫文を臨時大総統(大統領代理)として、清国に代わって、中国

大陸に中華民国が成立する。


1918(T7)年
  古賀辰四郎氏死去。以後息子の古賀善次氏によって、開拓と事業は引き

継がれて行く。


1919(T8)年冬
  中国福建省漁民31名が遭難尖閣諸島魚釣島に漂着する。12月

30日に古賀善次氏が見つけ、この時石垣島の村長・豊川善佐、石垣村衛生係・玉代

孫伴、尖閣諸島の開拓者・古賀善次、与那国島の通訳松葉ロブナストらが尽力して、漁民

31名を救助し治療看護し健康を回復せしめた。その上無事中国に送り返している。


尖閣諸島の写真と地図集」http://senkakusyashintizu.web.fc2.com/page020.htmlなどより)


1920(T9)年5月20日
  中国漁民31名の救助活動に対して、中華民国駐長崎領事から

上記四名へ感謝状が贈られる。現在は 玉代勢孫伴氏宛の感謝状石垣市八重山博物

館に保管されているが、2010.11.28には 豊川善佐氏宛の感謝状が見つかっている。これ

は当時のままの姿を維持したものである。そこには「日本帝国八重山郡尖閣列島」と明

記され、領事氏名の馮冕(ひょう・めん)と共に、「華駐長崎領事」の公印と「
中華民国駐長

崎領事印
」が押されていた。

尖閣諸島を日本領と認めていた何よりの証拠である。(2012.9.3,NO.35)


1927(T15)年
  無償貸与の30年が終了したため、1年契約の有償賃借となる。


1932(S7)年3月31日
  古賀善次氏に尖閣諸島魚釣島久場島・北小島・南小島の4島

を有償で払い下げる。(「尖閣諸島の歴史概要」
 http://www.seinensya.org/undo/ryodo/senkakushoto/070426history.htm


1940(S15)年
  
船舶燃料の確保が困難となり、尖閣諸島から撤収する。以後無人島と

なる。(「尖閣諸島今昔」
http://pinacles.zouri.jp/bunken/konjaku.htm


1945(S20)年8月15日
  日本国、ポツダム宣言を受諾して、「大東亜戦争」終戦。
(続く)