少し長くなるが、当ブログなどで言及した「尖閣諸島が日本固有の領土である」事を示して
いる事柄を時系列で並べてみる。「固有の」と言う意味は、それまでどこの国のものでもな
かった、と言うことである。これがあれば、馬賊・匪賊国家である中国共産党国家の心理戦
・世論戦・法律戦に反論できる。
1561(永禄4)年 明の使節・郭汝霖(かく・じょりん)が皇帝に提出した上奏文に、尖閣
諸島の大正島から琉球となる、書かれている。明代の『石泉山房文集』。(2012.8.31,NO.
34参照)
日本では川中島の戦いのあった年で、室町幕府第13代将軍足利義輝の時代。
1683(天和3)年 清の使節・汪楫(おうしゅう)は、漢詩で、台湾の馬祖島を過ぎれば中
国領から離れる、と詠んでいる。当然尖閣諸島は中国領ではない。その後編纂された清
の地理書『大清一統志(だいしんいっとうし)』は、現在の基隆市が台湾の北東端であるとし
ている。だから尖閣諸島は中国領ではないのである。(2012.8.31,NO.34参照)
天和3年は、日本では第5代将軍徳川綱吉の時代。
1856年(安政3年) 古賀辰四郎は、製茶業の古賀喜平氏の三男として、福岡市八女
市字山内に生まれる(2012.09.21,NO.49参照)。
篤姫で有名な第13代将軍徳川家定の時代、幕末。1868年から明治時代となる。
1879年(明治12年) 古賀辰四郎23才の時、八女茶販売のため沖縄に渡る。そこで夜
行貝に目をつけ、高給ボタンの材料として輸出し莫大な財を成す。
1884年(明治17年)頃 から古賀辰四郎は、尖閣諸島などの探検を行い、魚釣島、久
場島などでアホウ鳥のもう、綿毛、べっ甲、貝類などの採取を進める。
1885年(明治18年) 古賀辰四郎の借地契約の請求により、明治政府は沖縄県当局を
通ずるなどして、再三にあたり尖閣諸島の現地調査を行う。(2012.8.27~28,NO.30~31)
1891年(明治24年) 熊本県の伊沢弥喜太が魚釣島、久場島に沖縄漁民と共に渡り、
海産物とアホウ鳥の採集に成功する。その後1893年にも、何回かに分けて30名程度の
日本人が魚釣島や久場島に赴くが、長く留まることはなかった。(http://senkakujapan.nobody.jp/page053.html より)
1894(M27)年7月25日~1895(M28)年5月8日 (台湾5月29日~11月30日) 日清戦争
1895(M28)年1月14日 明治政府は、尖閣諸島が無主の地であることを10年にわたり
確認したため、日本国の領土に編入する。(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/qa_1010.html)
1895(M28)年4月17日 日清講和条約(下関条約)調印、朝鮮の独立・遼東半島・台湾・
澎湖諸島の日本への割譲(下関条約第2条)が決まる(尖閣諸島は含まれず)。同年5月8
日批准書交換、条約発効、停戦。(2012.8.27,NO.30)
下関条約第3条では、「前条の付属地図の境界線はこの条約批准後直ちに日清両国より
各二名の境界画定委員を任命し実地について確定するものとする。」とあるので、尖閣諸
島が含まれていないことは確かな事実である。(2010.12.4~12.10,「日韓併合100年」
NO34~39を参照のこと。)
1895(M28)年4月23日 露独仏の三国干渉。同年5月5日に三国に遼東半島の放棄を
伝える。
1895(M28)年5月29日~1895年11月30日 台湾平定完了(日清戦争完全終了)
1895(M28)年6月10日 古賀辰四郎が「官有地拝借願」を内務省に提出。(Wikipedia
より)
1896(M29)年 古賀辰四郎は明治政府より、魚釣島・久場島・北小島・南小島の30年
間の無償貸与を受ける。魚釣島に、鰹節工場の建設など開発に着手する。
1897(M30)年~ 大規模投資を実施し、魚釣島・久場島に家屋、諸水施設、船着き場、
桟橋などを構築し、排水溝など衛生環境の改善、海鳥の保護、実験栽培、植林などを
行った。
1904(M37)年 鰹節工場の他にアホウドリの羽加工工場、鳥フン石採掘場などを設け
て、魚釣島に古賀村(通称)が出来ていた。
1909(M42)年 古賀村の戸数は99戸を数え、定住者は248人に達した。以上の功績に
より、古賀辰四郎は藍綬褒章を受章している。
1912(M45)年1月1日 孫文を臨時大総統(大統領代理)として、清国に代わって、中国
大陸に中華民国が成立する。
1918(T7)年 古賀辰四郎氏死去。以後息子の古賀善次氏によって、開拓と事業は引き
継がれて行く。
1919(T8)年冬 中国福建省の漁民31名が遭難し尖閣諸島魚釣島に漂着する。12月
30日に古賀善次氏が見つけ、この時石垣島の村長・豊川善佐、石垣村衛生係・玉代勢
孫伴、尖閣諸島の開拓者・古賀善次、与那国島の通訳松葉ロブナストらが尽力して、漁民
31名を救助し治療看護し健康を回復せしめた。その上無事中国に送り返している。
(「尖閣諸島の写真と地図集」http://senkakusyashintizu.web.fc2.com/page020.htmlなどより)
1920(T9)年5月20日 中国漁民31名の救助活動に対して、中華民国駐長崎領事から
上記四名へ感謝状が贈られる。現在は 玉代勢孫伴氏宛の感謝状が石垣市八重山博物
館に保管されているが、2010.11.28には 豊川善佐氏宛の感謝状が見つかっている。これ
は当時のままの姿を維持したものである。そこには「日本帝国八重山郡尖閣列島」と明
記され、領事氏名の馮冕(ひょう・めん)と共に、「華駐長崎領事」の公印と「中華民国駐長
崎領事印」が押されていた。
尖閣諸島を日本領と認めていた何よりの証拠である。(2012.9.3,NO.35)
1927(T15)年 無償貸与の30年が終了したため、1年契約の有償賃借となる。
1932(S7)年3月31日 古賀善次氏に尖閣諸島の魚釣島・久場島・北小島・南小島の4島
を有償で払い下げる。(「尖閣諸島の歴史概要」 http://www.seinensya.org/undo/ryodo/senkakushoto/070426history.htm)
1940(S15)年 船舶燃料の確保が困難となり、尖閣諸島から撤収する。以後無人島と
なる。(「尖閣諸島今昔」http://pinacles.zouri.jp/bunken/konjaku.htm)