(1)関東軍の自衛のための派兵
この鉄道爆破を張学良の仕業と発表し、満州平定の軍事行動に移ったのである。
1931(S6).9.19、07:00陸軍省は「関東軍今回の行動は全部至当なり」と発言にもあるよ
うに容認している。このとき関東軍の兵力は1万人程度であり、片や張学良軍は約45
万人であったので、兵力増強はどうしても必要であった。しかし9.21、10:00の閣議では朝
鮮軍の満州派遣問題は承認が得られなかった。日本側はあくまでも不拡大であったが満
州の安寧の回復も急務であった。そのため朝鮮軍司令官は独断で混成第39旅団に越境
を命じ、9.21,1:20pm部隊は国境を越え関東軍の指揮下に入った。
1931.9.22、それまでは政府は越境を認めなかったが結局は閣議で事後承認されることに
なった。
今まで詳細に述べた日本居留民と日本人関係事業への暴行、略奪、虐殺行為に対し
ては、何らかの防御策を嵩じなけれはならない状況であったことは確かであった。そのた
め陸軍省では、これらの事を、関東軍の自衛行為と強調していたことは至極妥当なことで
あった。
しかしアメリカからは戦線不拡大の要求があり、外務省も陸軍省と協議し戦線を奉天(藩
陽)で止めるべきことで了解した。しかし10.8には関東軍の進攻は早く遼東湾の北西岸の
錦州爆撃が開始されてしまう。錦州には、張学良の主力部隊が駐屯しており、日本人や
日本の権益を守るためにはこの張学良の兵力を駆逐する必要があったことも確かで
あった。
(2)地方独立政権への支援
そして関東軍は、満州の各地でその実力者達に独立政権を作らせていった。その統合体
が満州を安全に統治する政治体制となるものを指向するものであった。そしてまた清朝最
後の皇帝であった宣統帝・愛新覚羅溥儀の希求するものでもあった。
(3)共産軍の上海派兵
また1932.1には上海市郊外に3個師団からなる3万人の中国十九路軍が進出してきた。
更には1.9の中国の新聞「民国日報」に日本を侮辱する内容の記事が載り、更には
1.18, 4:00 pmには日蓮宗の日本人僧侶と信者5人が中国人暴徒に襲撃され、僧侶
1名が死亡、他2名が重傷を負う事件が発生している。これにより上海共同租界各国(英
米日伊、仏)は、1.27には分担して警護することを決めた。
日本の兵力は陸戦1000人のみであったので1.28,9:30頃軍艦より1700名を上陸させて、
それでも2700名ばかりとしていた。中国軍は1.28午後に攻撃を仕掛けそれが一昼夜続く。
この中国十九路軍は、蒋介石の南京政府に属するものではなく、共産党軍に属し満州
での戦闘に便乗して日本軍に混乱を引き起こさんがために戦闘を仕掛けてきたものと見
られる。
中国十九路軍の一方的な攻撃に対して防戦一方であったが、これに対して日本海軍
は1.31に陸戦隊7000人、内地からは2.2に金沢第9師団と久留米から混成第24旅団を派
遣を決定した。これに対して国民党軍は、2.16に張治中を指揮官とする第5軍を上海に派
遣してきた。
(4)第一次上海事変の勃発
日本側は、中国軍が共同租界から20km撤退するよう要求するが拒否してきたため、
1932.2.20日本軍は総攻撃を開始する。戦闘は激烈を極めたが、3.1に日本軍が国民党
軍の背後に上陸すると、中国十九路軍は撤退を始めた。日本軍は3.3に戦闘中止を宣
言した。
36日間の戦闘で、日本側の戦死者769名、負傷2322名。中国側損害は14,326名であっ
た。
中国側住民の死者6080人、負傷2000人、行方不明10,400人と発表された。
日中、英米仏伊の六カ国による停戦交渉の結果、5.5に上海停戦協定が成立する。これ
が中国共産党が起こした第一次上海事変(1932.1.28~3.3)である。同じく中国共産
党・張治中が起こした第二次上海事変(1937.8.13~10.26)は、当ブログ2012.5.28,~
の「第2次上海事変」を参照願う。
そして満州では1932.2.5にはハルビンを占領し、満州の主要都市は殆どが日本軍の支
配下におかれることとなった。
(5)満州国の建国
上海での共産軍の攻撃を撃退し、満州では全土を占領した日本は、満州の安寧を維持
強固なものにするために、満州の統合を図った。即ち満州国の建国である。満州国の元
首には、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就任する。
満州国の承認に慎重であった犬養敦首相は五一五事件で、反乱部隊に暗殺されてしまう。
結局、1932.6.14に衆議院本会議にて、満州国承認決議案が満場一致で可決される。
満州国建国には関東軍の関与が相当あったものであったが、一概にそれが侵略であった
と言うには、一方的な判断である。先に述べたように、自衛・独立運動であった。
ソ連コミンテルンと中国共産党による日本人と日本軍への迫害と挑発、南京・済南事
件に続き、満州への共産党勢力の浸透による日本人への迫害と日本権益の侵害、
そして張学良による中村大尉殺害事件の発生や日本人であった朝鮮人への迫害などが
積み重なり、関東軍が切羽詰って自衛行動に出たものが、柳条湖事件であり満州事変
だったのである。
要は張作霖・張学良親子による軍閥的搾取と、先に述べているように中国内地の混乱によ
る流民の流入による混乱の極致からの満州の開放が必要となったものでもある。もとも
と中華帝国にとっては満州は夷テキの国であり、漢民族の国ではなかった。そのために
万里の長城を築き、万里の長城の内側(南側)を関内と言い天下と呼んでいたものであ
る。もともと満州は関外であり、中国のものではなかったのである。
だから918事変として2012.9.18前後に中国で大荒れした反日デモは、全くの的外れの
ものと言わざるを得ない。これは江沢民に始まる中国共産党の反日教育により植えつけ
られた、誤った歴史認識による反日デモなのである。それをよいことに胡錦濤は尖閣諸
島へ侵略を開始したのである。習近平は更に輪をかけて侵略をけし掛けている。
今年7月28日任期満了の参議院の選挙での自民党の圧勝が無いと中国による尖閣諸島
への侵略は極度にエスカレートすることになろう。日本国民もこの点に注目して、参院選挙
の投票には熟慮してもらいたいものである。
(続く)