支那事変の真相(12)

(6)リットン調査団報告(1932.3~1932.6)国際連盟脱退


国際連盟日支紛争調査委員会報告書」(Report of Commission of Enquiry into the Sino

-Japanese)は、1932.10.2に公表された。


報告書の概要は次の通り。

満州は不毛の地であったが日本の開発により、多くのシナ人が居住できている。

張作霖支那政府は、有効に日本人を保護できていない。

・しかし柳条湖事件満州事変は、自衛行為とは言い難い。

満州国も自発的な独立とは言い難く、日本軍に支えられている。

・しかし、日本が持つ条約上の権益、居住権、商権は尊重されるべきである。

・居留民の安全を目的とした治外法権は必要であり、その程度は都度見直せばよい。

・武力や片や不買運動と言う暴力や挑発では平和は訪れない。


と言ったものであったが、1933.2.24国際連盟総会で採択が行われ


満州の主権は支那にあり、日本軍の行動は自衛とは言い難く、満州国の分離独立は承認

できない。日本軍は満州鉄道の鉄道地区まで撤退すべきである


と賛成42、反対1(日本)、棄権1(タイ)不参加1(チリ)であり、この内容が採択された。


このため松岡洋介全権率いる日本はこれを不服としてその場で退場して、国際連盟を脱退

することになる(3.27連盟に通告)。満州国は、その後、世界の独立国60カ国中20カ国が

承認している。


(7)
日本外交の敗北


この国際連盟決議を見ると、リットン調査団報告よりも幾分日本に対して厳しくなっているよ

うにも見える。ここら辺りが日本の外交に問題があったのではないかと思われる。


当時の国際情勢や国際的な常識に照らして満州国建国は一概に間違いであったとは言え

ないものであったが、日本は、満州国の建国にまで突き進むべきではなかった満州の各

地に地方政府が成立していたとしたら、それらと愛新覚羅溥儀とを適当に結びつけてうまく

協調させて、彼ら達に満州に政治統合体を作らせてゆけばよかったのである。そして日本

人や日本権益の保護に協力させてゆく道を模索すればよかったのではないかと、考える。

要は独立した満州国に相当する日本人や日本権益を保護できる仕組みを工夫して行くべ

きであった、そしてそのことを世界にもっともっとPRして行くべきだったのであろう。まあ、こ

れも今だから言えることではあるが、そのためには軍部や国内世論を押さえる強力なリー

ダーシップを発揮できる政治家が必要であったであろう。


それが出来る政治家が育っていなかったところに日本の弱点があったのであろう。それに

しても日本はもっともっと世界に向けて蒋介石中国共産党の妨害を、有効に知らせて

日本への同情を引き出すべきであった。それが出来なかったところに、日本の敗北があっ

たのではないか。


日露戦争での日本の外交とは雲泥の差があったと言わざるを得ない。現在の沖縄県尖閣

諸島への中華人民共和国の侵略状況は、丁度この満州事変の状況と似ている部分が無く

もない、と思われる。じわじわと、時には暴力的に、日本側に攻め入る尖閣諸島への中国

の侵略状況は、満州事変にいたる中国側の日本権益への妨害と、全く同じなのである。


満州事変を起こさざるを得なかった理由には、このような中国側からの多くの排日事件

あった。特に満州ソ連と国境を接し東清鉄道(東支鉄道)はロシアが中国から権益を受け

て作ったものであり、ソ連共産党中国共産党を支援する拠点にもなっていた。そのため

共産パルチザンが跋扈し、反日暴徒と結託していた。満州を支配する軍閥であった張作

霖は、その中心人物でもあった。


その状況を示す資料を次に示す。

 
 
 
  
  
 

 

満州事変の原因http://www.history.gr.jp/~showa/214.html

 前述したごとくソ連東支鉄道及び満州の北西地域を完全に影響下におさめ、中国共

産党を支援して満州に共産軍の遊撃区を構築して反日闘争を展開した。(満州における

鉄道関連地図及び共産化状況地図)

 これにより、大正中期より東満州共産パルチザン
共産党員によるテロ組織、非正規軍の武装

暴力組織のこと)
による暴動の巷(ちまた)となり、昭和6(1931)年まで108件にも及ぶ事件が

起こった。

 その中でも特に大きな事件は、昭和5(1930)年間島省で日本人44名が殺害された暴

動事件である。

 その結果、満州の日本人社会においては、次は中国共産党の正規軍による反日暴動

起こるのではないかという危機感が高まることとなった。

 一方満州の支配者であった張作霖(ちょうさくりん)は、アメリカの力を背景にしながらこの

地域における排日運動を推進した。

 

 満鉄への経営妨害、炭鉱など鉱山の採掘権の否認、鉱物の輸送制限、付属地の買収

禁止、その他農林水産業への妨害、二重課税などの不当課税による商業活動の妨害、

日本人や朝鮮人への立ち退き命令などが行われ、これらによって
日本人居留民の生活は

危殆
(きたい、
あやういこと)に瀕(ひん)した。

 

 これらの多くの排日事件の中で、日中間の外交交渉の俎上(そじょう)に上がった「日支

懸案
」件数は昭和2年に31件、3年に37件、4年に77件、5年に95件の合計240件に及んだ。

 これに在満朝鮮人(当時日本国籍)への迫害や殺害事件などを加えると、事変発生当時

満州をめぐる日本と中国との間の懸案は、実に300件を上回った(「現代史資料11」より)。

 満州事変直後には満州では日本人居留民生活出来ないまでになっていた。

 満州事変は以上のようなおびただしい排日事件が繰り返されたのちに、これを解決すべ

く起こった事変であった。

(続く)