このように日本は知らず知らずの内に中国ペースの「三戦」に引き込まれてしまっている。
このためアメリカも日本を具体的に守ることができない、と言う自体に直面することになる。
だから日本は、どうしても自分の国は自分で守る体制を早急に構築して行くことが必要な
のだ。その上で、アメリカと共に中国に対抗して行くことを確実にしておかなければならない。
【9】戦後体制を決めた「カイロ宣言」とは何か?
さてその「カイロ密談」とはどんなものだったのであろうか、に入る前に先ずその前に「カイ
ロ宣言」なるものの内容やいきさつを知る必要がある。
(1)1943.11.22、
米国大統領のF.D.ルーズベルト、英国首相ウィンストン・チャーチル、中華民国国民政府主
席の蒋介石の3者による「カイロ会談」が開かれる。戦後の対日基本方針を確認するため
であった。
(2)1943.12.1、
会談内容が声明として発表されるが、公文書と呼ぶべきものはなく、残されているものはメ
ディアリリースなどによるその内容のみである。これが「カイロ宣言」と言われるものである
が署名などはなく、台湾政府は今もって無効と言う立場をとっている。それはその内容に
「中華人民共和国が、このカイロ宣言を根拠に台湾の領有を主張している」からである。
・米英中の対日戦争の継続
・日本国の無条件降伏を目指す
・日本への将来的な軍事行動を協定
・第一次世界大戦により占領した(注1)太平洋の全島奪還、及び日本が中国領土から奪った
(注2)領土を中華民国へ返還(例として満州、台湾、澎湖諸島)
・日本により獲得された全領土剥奪(米公文書館にあるカイロ議事録の323~324頁に、ル
ーズベルトは、蒋介石に対して「琉球諸島全部を中華民国に渡したい」と申し入れるが、蒋
介石は拒否したので、沖縄県の帰属は日本へ残すことになったとある。)
・朝鮮の独立
(注1)2012.5.29の第2次上海事変、NO.2参照のこと
(注2)2010.12.4~7の日韓併合100年、NO.34~36参照のこと(正しくは、奪ったものではない)
このようにカイロ会談の内容は、遠藤誉氏の指摘する通り、尖閣諸島はもとより琉球諸島
も含まれていないのである。だから楊潔チ外相らの言う「カイロ宣言」や「ポツダム宣言」に
より中国に返還された地域(満州・台湾・澎湖諸島)には、尖閣も琉球も含まれていないの
である。これは、中国猿園の楊潔チ猿のたわごと(プロパガンダ)なのである。
(4)カイロ会談をなぜ開いたのか?
・ルーズベルトは、蒋介石が日本と単独講和をするのではないかと心配していた。事実蒋
介石は英米からの支援が少ないと不満を持っていた。
・そのためルーズベルトは蒋介石を連合国側のに引き止めておくため、カイロ会談に出席
させて、満州・台湾・澎湖諸島を中華民国に返還させることを約束し、単独講和を禁じた。
・ルーズベルトは中華民国を戦後のアジアの中心勢力にする構想をもっていた。それはル
ーズベルトの日本に対する強い差別意識から出ているものであり、中華民国に過剰な期
待があった。
・日本は中国での戦争は拡大させたくはなかったが、中国共産党軍の執拗な謀略や攻撃
(日本邦人や日本権益への虐殺や攻撃)に手を焼いていた。その共産党軍は国民党軍に
紛れ込んで作戦を遂行していた。
・ルーズベルトは中国戦線の実態を把握しておらず、更には援蒋ルートを遮断された蒋介
石も自国の不利な戦況を知らせていなかった。蒋介石には連合国と共に戦争を完遂する
能力も力もないことに、ルーズベルトは気付いていなかった。
・カイロ宣言を知らされた日本は、大陸打通作戦(1944.4.17~12.10)を遂行した。その結
果蒋介石は徹底的に痛めつけられ、国共内戦に惨敗することになる。この結果アメリカの
意図とは逆に、中国には共産党政権が成立することとなってしまった。世間知らずのルー
ズベルトの為せる業であった。
・日本も日本で、蒋介石とは敵対することなく協調して対共産軍作戦を遂行するくらいの戦
略が必要であった。早い段階で蒋介石の意図を見抜き、蒋介石の中国統一を手助けする
べきであった。そのためには日本も中国での利権にある程度の制限があっても仕方が無い
と認めるべきであったろう。
・中国でのこの失敗の結果、アメリカはマリアナ・フィリピン・沖縄経由での日本攻略に変更
され、以後ヤルタ、ポツダムには蒋介石は招かれることはなかった。
(5)ポツダム宣言受諾と無条件降伏
・1945.7.17~8.2にかけて、ベルリン郊外のポツダムにアメリカ大統領ハリー・S・トルーマン
(ルーズベルトは1945.4に病死)、イギリス首相ウイストン・チャーチル、ソ連共産党書記長ヨシフ
・スターリンの3人が集まり、戦後処理の打ち合わせが行われた。これが「ポツダム会談」
で、「ポツダム宣言」は1945.7.26に発表され、「日本に無条件降伏を求める」ものであっ
た。この宣言にはカイロ宣言が盛り込まれており、アメリカ合衆国大統領、イギリス首相、中
華民国主席の3者の共同声明となっているが、実質はアメリカ一国によって作成され、トル
ーマンが3人分の署名を行っている。
この時点での日本は戦争を遂行できる状態ではなかったが、鈴木貫太郎首相は「ポツダム
宣言」受諾に早急に国内をまとめることができずに、結局は8.6に広島に原爆が投下され、
更には8.9にソ連の侵攻を許すこととなってしまった。結局8.14に日本政府は宣言の受諾
を連合国に通告し、
8.15の玉音放送となった。9.2に戦艦ミズーリ上で、降伏文書に調印する。
「ポツダム宣言」の内容は、簡単に言うと、「日本はカイロ宣言を守り無条件降伏すること、
そして軍国主義が排除されるまで占領下におくが、民主主義の下自由に発展することが出
来る」と言うものである。
以上やや詳しく「カイロ宣言」と「ポツダム宣言」を説明してきたが、これらの事情を頭におい
て「蒋介石が琉球諸島の領有を断った」ことに、話題を移そう。
(続く)