尖閣諸島問題その3(31)

尖閣棚上げ合意なかった」 78年の園田・鄧小平会談同席の元中国課長
2013.6.29 08:24
  ■「一方的思い」

Chn13062908300000n1
沖縄県尖閣諸島=2012年9月  

 尖閣諸島沖縄県石垣市)をめぐり、中国政府が主張する領有権問題の「棚上げ合意」に

ついて、元外務省中国課長田島高志氏は28日までに産経新聞の取材に応じ、「中国側

の一方的な思いで、合意はなかった
」と述べた。田島氏は、中国側が合意があったとする

1978(昭和53)年会談に中国課長として同席した

 会談は、日中平和友好条約をめぐり同年(1987年)8月10日、北京で園田直(すなお)外

相(当時)と鄧小平副首相(同)の間で、同条約の批准書交換のため来日した鄧小平氏

福田赳夫首相(同)との間で10月23、25の両日にそれぞれ行われた。

 田島氏によると、8月の会談では、鄧氏が「日中間には釣魚島(尖閣諸島の中国名)や大

陸棚の問題があるが、それ以上に共通点がある」と発言。これを受け、園田氏が同年4月

に起きた中国漁船団による尖閣諸島周辺の領海侵入事件を念頭に「先般のような事件を

二度と起こさないでいただきたい
と主張し、鄧氏が「中国政府としてはこの問題で日中間

に問題を起こすことはない。数年、数十年、100年でも脇に置いておけばいい」と応じた。

園田氏は聞き置いただけで反論しなかった。日本側は尖閣諸島実効支配しており、中国

側に現状変更の意図がない
ことが確認できたため、反論は不要と判断したという。

 中国側資料には、これに似た鄧氏の発言だけが記録されており、外務省が公開済みの

記録には、尖閣関連のやりとり自体が含まれていない。

 また、記録公開済みの10月25日の福田・鄧会談では、鄧氏が終了間際に「次の世代は、

われわれよりもっと知恵があり、この問題を解決できるだろう」と「独り言のように」(田島氏)

発言。福田首相は応答しなかった。鄧氏は会談後の単独記者会見で「国交正常化の際も、

平和友好条約を交渉した際も、この問題に触れないことで一致した」と主張した。

 田島氏は、一連の会談での合意を否定した上で、中国側が、昨年9月の尖閣諸島購入

で「日本側が共通認識(合意)を破壊した」(外務省声明)としていることには「事実に反す

る言いがかりだ
」と批判した。

 ■72年も合意なし

 中国側は、国交正常化交渉が行われた72(昭和47)年9月27日田中角栄周恩来

首相の会談でも合意があったとしている。交渉に条約課長として同行した栗山尚一氏

「両首脳の間で棚上げの暗黙の了解が成立した」と指摘する。

 ただ、産経新聞の取材に「あったのは暗黙の了解で中国側が『合意があった』と言うの

は言い過ぎだ
」とも話した。田島氏も「条約交渉当時、田中・周会談で棚上げの合意があっ

たという認識はなかった
」と72年の合意説を否定した。

http://sankei.jp.msn.com/world/news/130629/chn13062908300000-n1.htm

 

だから鳩山は国賊なのである。現行法で死刑に出来ないものか。まことに歯がゆいもので

ある。民主党内にはこの手の国賊まがいの考え方を持つ輩がまだ沢山巣食っているので

あろう。恐ろしいことだ。


さて、2012.9.30と10.1の「
尖閣諸島問題その2(55、56)」を参照するのが面倒だと思わ

れる方も多々おられることと思いますので、それを次の載せる。これをみれば尖閣諸島

無主の地であり、当時の中国でも尖閣諸島を中国領とはしていなかったことが明確にわか

ります。1968年11月にECAFEの調査で尖閣諸島海域に石油が埋蔵されていることが判

ると、途端に中国は尖閣は中国のものだ、とわめきだした次第だ。

さて次に、小生のブログ、2012.9.30と10.1の「尖閣諸島問題その2(55、56)」そのもの

を載せる。

 

少し長くなるが、当ブログなどで言及した「尖閣諸島が日本固有の領土である」事を示し

ている事柄を時系列で並べてみる。「固有の」と言う意味は、それまでどこの国のものでも

なかった、と言うことである。これがあれば、馬賊・匪賊国家であり中国共産党国家の

心理戦・世論戦・法律戦に反論できる。

1561(永禄4)年  明の使節・郭汝霖(かく・じょりん)が皇帝に提出した上奏文に、尖閣

島の大正島から琉球となる、書かれている。明代の『石泉山房文集』。(2012.8.31,NO.34

参照)

日本では川中島の戦いのあった年で、室町幕府第13代将軍足利義輝の時代。


1683(天和3)年
  清の使節・汪楫(おうしゅう)は、漢詩で、台湾の馬祖島を過ぎれば中

国領から離れる、と詠んでいる。当然尖閣諸島は中国領ではない。その後編纂された清の

地理書『大清一統志(だいしんいっとうし)』は、現在の基隆市が台湾の北東端であるとして

いる。だから尖閣諸島は中国領ではないのである。(2012.8.31,NO.34参照)

天和3年は、日本では第5代将軍徳川綱吉の時代。


1856年(安政3年)
  古賀辰四郎は、製茶業の古賀喜平氏の三男として、福岡市八女市

字山内に生まれる(2012.09.21,NO.49参照)。

篤姫で有名な第13代将軍徳川家定の時代、幕末。1868年から明治時代となる。


1879年(明治12年)
  古賀辰四郎23才の時、八女茶販売のため沖縄に渡る。そこで夜行

貝に目をつけ、高給ボタンの材料として輸出し莫大な財を成す。


1884年(明治17年)頃
  から古賀辰四郎は、尖閣諸島などの探検を行い、魚釣島、久場

島などでアホウ鳥のもう、綿毛、べっ甲、貝類などの採取を進める。


1885年(明治18年)
  古賀辰四郎の借地契約の請求により、明治政府沖縄県当局を

通ずるなどして、再三にあたり尖閣諸島の現地調査を行う。(2012.8.27~28,NO.30~31)


1891年(明治24年)
  熊本県の伊沢弥喜太が魚釣島久場島に沖縄漁民と共に渡り、

海産物とアホウ鳥の採集に成功する。その後1893年にも、何回かに分けて30名程度の

日本人が魚釣島久場島に赴くが、長く留まることはなかった。
http://senkakujapan.nobody.jp/page053.html より)


1894(M27)年7月25日~1895(M28)年5月8日
、(台湾5月29日~11月30日) 日清戦争

1895(M28)年1月14日  明治政府は、尖閣諸島が無主の地であることを10年にわたり確

認したため、日本国の領土に編入する。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/qa_1010.html


1895(M28)年4月17日
  日清講和条約下関条約)調印、朝鮮の独立・遼東半島・台湾・

澎湖諸島の日本への割譲(下関条約第2条)が決まる(尖閣諸島は含まれず)。同年5月

8日批准書交換、条約発効、停戦。(2012.8.27,NO.30)


下関条約第3条
では、「前条の付属地図の境界線はこの条約批准後直ちに日清両国より

各二名の境界画定委員を任命し実地について確定するものとする。」とあるので、尖閣

島が含まれていないことは確かな事実である。(2010.12.4~12.10,「日韓併合100

年」NO34~39を参照のこと。)

(続く)