尖閣諸島問題その3(32)

1895(M28)年4月23日  露独仏の三国干渉。同年5月5日に三国に遼東半島の放棄を伝

える。

1895(M28)年5月29日~1895年11月30日  台湾平定完了(日清戦争完全終了)

1895(M28)年6月10日  古賀辰四郎が「官有地拝借願」を内務省に提出。(Wikipediaより)

1896(M29)年   古賀辰四郎明治政府より、魚釣島久場島・北小島・南小島30年

間の無償貸与
を受ける。魚釣島に、鰹節工場の建設など開発に着手する。

1897(M30)年~  大規模投資を実施し、魚釣島久場島に家屋、諸水施設、船着き場、桟

橋などを構築し、排水溝など衛生環境の改善、海鳥の保護、実験栽培、植林などを行った。

1904(M37)年  鰹節工場の他にアホウドリの羽加工工場、鳥フン石採掘場などを設け

て、魚釣島に古賀村(通称)が出来ていた。

1909(M42)年  古賀村の戸数は99戸を数え、定住者は248人に達した。以上の功績に

より、古賀辰四郎藍綬褒章を受章している。

1912(M45)年1月1日  孫文を臨時大総統(大統領代理)として、清国に代わって、中国大

陸に中華民国が成立する。

1918(T7)年  古賀辰四郎氏死去。以後息子の古賀善次氏によって、開拓と事業は引き

継がれて行く。

1919(T8)年冬  中国福建省の漁民31名遭難し尖閣諸島魚釣島に漂着する。12月30

日に古賀善次氏が見つけ、この時石垣島の村長・豊川善佐、石垣村衛生係・玉代勢孫伴、

尖閣諸島の開拓者・古賀善次、与那国島の通訳松葉ロブナストらが尽力して、漁民31名

を救助し治療看護し健康を回復せしめた。その上無事中国に送り返している。

(「尖閣諸島の写真と地図集」
http://senkakusyashintizu.web.fc2.com/page020.htmlなどより)


1920(T9)年5月20日
  中国漁民31名の救助活動に対して、中華民国駐長崎領事から

上記四名へ感謝状が贈られる。現在は 玉代勢孫伴氏宛の感謝状が石垣市八重山博物館

に保管されているが、2010.11.28には 豊川善佐氏宛の感謝状が見つかっている。これは

当時のままの姿を維持したものである。そこには「日本帝国八重山郡尖閣列島」と明記さ

れ、領事氏名の馮冕(ひょう・めん)と共に、「華駐長崎領事」の公印と「中華民国駐長崎領

事印
」が押されていた。

尖閣諸島を日本領と認めていた何よりの証拠である。(2012.9.3,NO.35)


1927(T15)年
  無償貸与の30年が終了したため、1年契約の有償賃借となる。

1932(S7)年3月31日  古賀善次氏に尖閣諸島魚釣島久場島・北小島・南小島の4島を

有償で払い下げる。(「尖閣諸島の歴史概要」 
http://www.seinensya.org/undo/ryodo/senkakushoto/070426history.htm


1940(S15)年
  船舶燃料の確保が困難となり、尖閣諸島から撤収する。以後無人島となる。

(「尖閣諸島今昔」
http://pinacles.zouri.jp/bunken/konjaku.htm


1945(S20)年8月15日
  日本国、ポツダム宣言を受諾して、「大東亜戦争終戦

1946(S21)年  GHQ覚書667号「若干の外郭地域を政治上、行政上日本から分離に関

する覚書」により尖閣諸島を含む南西諸島の施政権が連合国へ移管

(「茶説 銀座一丁目新聞」
http://ginnews.whoselab.com/101010/tyasetsu.htm


1951(S26)年9月8日
  サンフランシスコ平和条約調印(1952.4.28発効)。尖閣諸島は米

国の信託統治下に置かれる。(2012.8.27、当ブログNO.30参照)


1953(S28)年1月8日
  同日付人民日報の記事、「琉球諸島」の中に「尖閣諸島」を含めて

いる、と外務省のH.ページで指摘している。(2012.8.28、当ブログNO.31)


1953(S28)年12月25日
  琉球列島米国民政府布告第27号を発布、米国の施政権の

及ぶ範囲を定める。その範囲の中に尖閣諸島は含まれている。(2012.8.28、当ブロ

グNO.31)

1955(S31)年  久場島が米軍の演習地となる。

1956(S32)年  大正島国有地)も米軍の演習地となる。(「尖閣諸島の開拓者・古賀辰四

郎氏のこと」
 http://senkakusyashintizu.web.fc2.com/page053.html より、記載場所は

感謝状の表示のした四行目にあり。) 


1965(S40)年
  北京の地図出版会社が「世界地図集」で日本領として尖閣諸島を表記

する。

(「茶説 銀座一丁目新聞」
http://ginnews.whoselab.com/101010/tyasetsu.htm


1968(S43)年
  日本→琉球列島米国民政府、「尖閣周辺での台湾漁民の不法行為

除を要求
。そのため台湾漁民は尖閣周辺で漁を行うには、琉球列島米国民政府の許可が

必要となった。(2012.8.27、当ブログNO.31)


1969(S44)年
  国連アジア極東経済委員会(ECAFE)が、前年の東シナ海の海底調査

結果を「埋蔵量が豊富な油田がある可能性が高い」と発表、世界第二位のイラク並み

の1,000億バーレルを超えるとの報道。(2012.9.24,NO50)

しかし1994年の日本側調査では、32.6億バーレル程度であった。

http://www.shiftm.jp/show_blog_item/51


1970(S45)年9月16日
  駐米台湾大使に、米国東アジア課長のマーシャル・グリーンは、

尖閣諸島琉球諸島の一部であり、従って日本に復帰させると断言している。(2012.8.

27、当ブログNO.31)


1971(S46)年12月30日
  中国は外交部声明と言う形で、尖閣諸島の領有を主張する。

台湾も同年6/11に外交部声明で尖閣諸島の領有権を主張している。(2009.9.9、ブログ

尖閣諸島問題」 NO.124参照)


1972(S47)年05月15日
  沖縄返還(沖縄復帰)、尖閣を含む先島諸島を含む琉球諸島

が日本に返還。

1972(S47)年9月29日  日中国交正常化

1972(S47)年  古賀善次氏が埼玉の栗原國起氏北小島・南小島を売却する。

1978(S53)年  古賀善次氏死去。妻花子氏が魚釣島も栗原國起氏に売却する。久場島

は花子氏の所有。

1978(S53)年8月11日  日本青年社魚釣島に上陸して灯台を建設、日中平和条約調

印の日(8.12) に点灯される。将に「尖閣の灯」(2012.9.24,NO.50参照)


1986(S61)年
  戦略的国境概念を導入し、「海軍発展戦略」を公表する。空母の導入を

公表。


1988(S63)年6月
   日本青年社は、尖閣諸島上陸10周年を記念して、アルミ軽合金製、

太陽電池式の本格的な灯台を建設する。


1992(H4)年2月25日
  中国は不法にも「領海法」を制定し、尖閣諸島南沙諸島の領有

を宣言する。


1995(S70)年
  中国の李鵬首相が「日本などは20年も経てば地球上から消えてなくなる」

と発言。(2012.9.25,NO.51などを参照)


1996(H8)年
  日本青年社は北小島にも灯台を建設。11月に台湾人に壊されるが12月に

修復。

(続く)