尖閣諸島問題その3(48)

 まず、明代について。ここでは、明代には台湾島がまだ中国領土ではなかったという紛れ

もない歴史的事実を前提に考える必要がある。そうすると、その台湾島よりはるか遠方に

位置する尖閣諸島
が当時中国の領土であったことはありえないのである。絶海の孤島群

である尖閣諸島が台湾とは無関係に、はるか遠方の中国福建省の飛び地であったとか、

中央政府の直轄領であったというのは荒唐無稽な話にすぎない。

 それでは、明代に中国が国際法的な意味で尖閣諸島を「発見」したという主張はどうか。

 中国側は、1534年冊封使陳侃が明朝の使節として琉球に赴く途中で尖閣諸島を望

見し、これを中国語の島名で公式の記録に記載したことが国際法にいう「発見」に相当する

と主張する。

 しかし、これも直ちに否定される。まず、この記録からは、これらの諸島に対する領有意

思が全く明らかにされていない。陳侃はただ久米島を見て「これすなわち琉球に属する島

なり
(乃属琉球者)
」と述べているだけである。実は、陳侃は途中の島など何も知らずに久米

島まで来て、そこで琉球人に教えられてそれが琉球領であることを初めて知ったのである。

途中の島はすべて大海に孤立する無人島であり、ただ帆船航海の航路の目じるしとして注

目され島名もつけられていたにすぎない。

 当時冊封使船の航海は琉球王国から派遣された水先案内人や熟練の水夫に頼り切りで

あり、島名も彼らから聞いたものを中国語に訳したと思われる。当時琉中間航路では圧倒

的に琉球の船の通航の方が多かった。

 琉中間の通航が始まった1372年から陳侃が渡琉した1534年までの162年間に、琉球

官船441隻が尖閣諸島の航路を通航していたのに対して、同時期の明国の官船はわずか

に21隻であった。また琉球の船が1372年から渡航しているのに対して、陳侃が渡航したの

はその162年後である。つまり、「発見」はむしろ琉球王国によってなされたといいうるので

ある。

 その後の郭汝霖使琉球』(1561年)の「赤嶼は琉球地方を界(さかい)する島なり(赤嶼

者界琉球地方山也)
」の文言については、同じ郭汝霖の『石泉山房文集』の中に「赤尾嶼

琉球領内にある境界の島であり、その島名は琉球人によって付けられた
」と述べた一

節があることが指摘されている。他に、『籌海図編』(1562年)、『日本一鑑』(1565年)等の明

代後期の海防書からも当時尖閣諸島が中国領土であったとする証拠を見出すことはでき

ない。

 かくして、明代の中国史料から、「明代において尖閣諸島は中国の領土ではなかった」こ

とが判明する。


 次に、清代尖閣諸島は中国の領土となったのか。一般論として、このことを認めるのは

困難である。清代の文献で、尖閣諸島を中国領土と明記したものは見当たらないし、清国

が同諸島の領有を宣言して併合したり、そこに実効支配を及ぼしていたりした事実はない

からである。


 ここで唯一可能な議論は、尖閣諸島は地理的に台湾の附属島嶼であり、台湾が清代に

中国領土となったときに、いわば自動的に尖閣諸島も中国領土となったと説くものである。


 Han-yi Shaw氏は、その歴史的証拠として、明代の『日本一鑑』の中の「釣魚嶼 小東小

嶼也
」の文言を援用する。『日本一鑑』は別のところで「小東島はすなわち小琉球である。

日本人はそれを大恵国(台湾のこと)と呼んでいる
」と説明しているのだから、ここで「小東」

は明らかに台湾島のことである。したがって、「釣魚嶼 小東小嶼也」の文章は、「釣魚嶼(魚

釣島)は台湾島附属の小島である
」と説くのである。

 しかし、この解釈には無理がある。文脈では「小東」と「小東島」は明らかに区別されてい

る。台湾島は明確に「小東島」または「小東之島」と表現されている。ここで「小東之島」は

「小東にある島」としか読めない。つまり、「小東」は海域を指すのであり、小東洋なのであ

る。具体的には、日本列島から沖縄列島を経て台湾ぐらいまでの列島弧沿いの太平洋海

域を指し、大東洋(太平洋中央部)、小西洋(インド洋)、大西洋(今の大西洋)に対比される概

念である。その小東海域にある大きな島すなわち「小東島」が台湾島で、その海域に浮か

ぶ小さな島すなわち「小東小嶼」が釣魚嶼なのである。よって、ここは「釣魚嶼は小東の

海(小東洋)にある小さな島である
」と読むのが自然な読み方なのである。


 それに、そもそも台湾がまだ中国に帰属しておらず、その存在がほとんど知られていなか

ったこの時代に、台湾より東に170キロ遠方にある孤島が地理的に台湾の附属島嶼を成す

のかどうかが航海者の関心を惹いたとはとても考えられない。

 かくして、文理解釈からも時代背景からも『日本一鑑』の「釣魚嶼 小東小嶼也」の文言よ

り「尖閣諸島は台湾附属の島嶼であるという解釈を引き出すことはできない


尖閣が中国の領土だった形跡なし


 その他の清代の中国史料からも「清代に尖閣諸島は中国の領土となった」ことを立証す

る直接的な証拠は見出せない
。また引用されている史料の文言は多義的で比喩的な表現

が多く、間接的な証拠として見ることも困難である。それに関連して、清代を通じて、尖閣

島が台湾島の附属島嶼として、中国(国家)によって、また、一般にも、認識されていたこと

は決して確認されない。中国や琉球(日本)及び西洋人による文献や地図・海図から示され

ることは、むしろ、19世紀において尖閣諸島が地理的に琉球諸島の一部と見なされていた

と推測させる資料(データ)の方がずっと多いことである。


 かくして、中国側史料の分析より得られる結論は、「尖閣諸島は、明・清代を通じて中国

の領土であったことはないし、また、台湾の附属島嶼として見なされてもいなかった
」とい

うものである。

 日本の尖閣諸島領有に対して、中国側は1970年までの76年間なんら異議を唱えず黙認

してきた
。1902~32年の時期に中国は、西沙諸島に対するフランスの先占の動きには即

時に強い抗議をしているのに対して、同時期、尖閣諸島における日本の主権行使に対して

は全く沈黙を保ってきた。第二次世界大戦後の台湾や沖縄の日本からの分離に際しても

同様であった。これらの事実は、この時期中国が尖閣諸島を自国領土として考えていなか

った
ことを端的に立証するものである。


 日本が尖閣諸島に対して領有権を有することは間違いない。日本は中国に対して主張と

反論を繰り返すとともに、国際社会に対してそのことを積極的に発信していくべきである。

それと同時に、尖閣に対する実効支配を強化していく必要がある。

[特集] 尖閣諸島問題
http://wedge.ismedia.jp/ud/special/4ff550761e2ffa0751000001

◆WEDGE2013年1月号より

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/2472

 

ご承知の通り、尖閣諸島は、明治28年、1895年1月14日に日本政府が閣議決定して、そ

の領有意志を世界に示したのである。そして国有地に登記して、明治29年(1896年)古賀

辰四郎氏に30年間無償貸与したのである。そして古賀氏は、魚釣島を中心にして、鰹節

工場やアホウドリの羽加工工場、鳥フン石採掘場などを設けて、魚釣島に古賀村(通称)を

つくり当時284人が定住していたのである。
(「尖閣諸島問題その2」の2012.9.21,NO.49~

を参照のこと。)


これこそ日本政府が尖閣諸島を領有する国家の意思を明確に示し、更には尖閣諸島を実

効支配したのである。日本政府による遭難者救助等の行政行為もなされたのである。この

件については当時の中国政府である中華民国から、「日本帝国沖縄県八重山郡尖閣

」と明記して石垣村長に感謝状まで贈られているのである。
(「尖閣諸島問題その2」

の2012.9.4,NO.36~を参照のこと。)
(続く)