日清戦争開始120年に考える。(21)

日清戦争日本の侵略戦争であるなどと、日清戦争(甲午戦争)勃発120周年記念シンポ

ジウムで、臆面もなく言わせている。日清戦争は中国(清国)の朝鮮への侵略を防ぐ戦いで

あり、ある意味日本の独立戦争でもあった。

 

甲午戦争120周年の記念イベントが北京で
2014-07-25 14:08:21

 中国と日本の甲午戦争(日清戦争)勃発120周年を記念するシンポジウムが24日、北京

で開かれました。各界の代表約120人が参加し、甲午戦争が現在の中国に警示する意味

などについて話し合いました。

 北京大学歴史学部の王暁秋教授は「甲午戦争は、中日関係史においても、日本の対中

国認識においても転換点となった。この戦争以降、中国は日本と不平等な位置付けとさ

れた。日本の軍国主義が膨張し、『中国征服論』を唱え、その結果、侵略戦争を起こし、中

国およびアジア諸国の人々に対し、多大な罪を犯した」と批判しました。

 現在の中日関係について、中日関係史学会の王泰平副会長は「安倍内閣は、釣魚島問

題を理由に憲法解釈を変更し、憲法による制約を破った。これにより、釣魚島問題が中日

関係悪化の主な原因になり、安倍内閣が勢いに乗って憲法を改正する可能性も出ている」

との懸念を示しました。そのうえで、「中国は国の安全や東アジアの平和、中日関係の長期

的安定のため、歴史を鑑とし、危機意識を持って、歴史的悲劇が再び起こらないよう気をつ

けるべきだ」と指摘しました。

 また、シンポジウムの参加者らは、中国も日本も歴史と現実の両面から反省、検討し、関

係が正常化した未来を目指すべきだと強調しました。(鵬、山下)暮らし・経済へ

http://japanese.cri.cn/881/2014/07/25/201s224318.htm

 

ここで一つ指摘しておきたい。この甲午戦争(日清戦争)勃発120周年を記念するシンポジ

ウム
では、日清戦争では、「中国は不平等条約を結ばされた」などと言っているが、それこ

そ中国人こそが「歴史を鏡」としていない証拠である。

明らかに中国共産党による捏造された歴史を教えられた結果の間違った思想である。中

国の歴史観と現実こそが、反省されるべきものであり、中国の全方位侵略を中止し、「歴史

と現実」の両面から反省、検討し、各方面と関係が正常化した未来を目指して貰いたいもの

である。


まだまだ武士道精神の残っていた明治の時代の戦争は、日清戦争でも武士道精神は発揮

されていたものです。乃木希典将軍の「水師営の会見」では、降伏したロシア将兵への帯

剣を許している事を見ても、正々堂々の戦いを行っていた証拠ではないのかな。


次に良い例を挙げておく。中国人こそ残虐なな事を平気で行う人種である。

これは小生のブログ・2010.11.24の「日韓併合100年について(28)」よりの引用である。

 

これは西洋人の白人至上主義という人種差別根性の成せる業であろうと思われるが、日

中戦争中に『マンチェスターガーディアン』の上海特派員ハロルド・ティンパーリの『戦争とは

何か』も全く同様な作り話であった。彼は国民党中央宣伝部の顧問であった。真実は次の

通りである。日中戦争での「南京攻略」時に国民党軍が軍服を脱ぎ「便衣兵」として民間人

の振りをして日本軍に襲い掛かり日本人を殺戮した。そのため日本軍は反撃したのである。

旅順口虐殺事件は、この事件と同じ構図であろうと確信している。南京の件は、小生のブ

ログ「南京大虐殺の虚構宣伝と胡錦濤の秘密工作に騙されるな」('07.6.6~)や「日中戦争

中国共産党が引き起こしたものだ」('07.7.4~)を参照願いたい。


民間人の振りをした清国兵が殺されたことや巻き添えとなった民間人は存在したであろう

が、虐殺と言われる旅順口虐殺事件は実際にはなかったのであるが、中国はこのことをも

反日教育に使っている。いくら中国が戦略的互恵関係だとか誤魔化しを言っても、絶対に

信用してはならない。


これに類した事例は現在の中国共産党政権にも存在する。今年の2010年9月7日に発生

した尖閣諸島での中国漁船の日本巡視船への衝突事件である。中国に非があるにも拘わ

らず、中国共産党政府は日本政府に対して、何重にもわたる恫喝をしてきたではないか。

現在の中国は世界一の暴力装置を有しているため、それを背景とした脅しである。清国は

それほど実力がなかったために、騙しの手練手管を施してきたのである。根底にあるその

根性は同じものである。


この『旅順口虐殺事件』の事の興りは、次のような経過を辿っている。


旅順陥落に伴い、第2軍司令部は乃木希典少将率いる歩兵第1師団に市内探索と掃討の

任務を命じた。先の『土城子の戦闘』(11/27,NO.27参照)では死者11名、負傷者37名を

出す苦戦を強いられたが、その戦闘などでの日本軍戦死傷者の生首が鼻や耳などをそが

れた状態で、道路脇の柳や民家の軒先に吊るされていたり、体を切り刻まれて放置されて

いたのである。中には息のあるうちに切り刻まれた兵士もいたことであろう。これを見た

日本軍は、当然激高せざるを得なかった。しかも清国兵は軍服を脱ぎ捨てて「便衣兵」とし

てに日本兵に歯向かってきた。いわゆるゲリラ戦を挑んできたのである。だから民間人の姿

をした清国兵の死体もかなり存在していたのであり、巻き添えで死んでいった民間人も多く

いたことは推察に難くない。しかもこの掃討作戦は、旅順要塞への攻撃と連動して行われ

ていた。だから市街戦と攻城戦が平行で行われていたのである。従って旅順市街の掃討作

戦中は、市街でも清国兵(や便衣兵)は戦意喪失していなかったのであり、激しく抵抗してき

ていたのである。だから市街戦では民間人の犠牲者も数多かったものと思われる。更に戦

闘が一段落すると、日本軍は各家ごとに人数を把握し、便衣兵ではないので殺すな、など

と茶番とも思われるような貼紙を貼らなければならなかったのである。

 

日清戦争講和条約は、決して不平等なものではなく、完全に平等な条約であった。
(続く)