日清戦争開始120年に考える。(25)

2、明治6年1873年、牡丹社事件琉球処分

琉球と日本との関係については、豊臣秀吉の文禄(元年)・慶長(3年)の役(1592年、

1598年)では、秀吉軍に食糧を提供しているが、なかなか日本には馴染まなかった。

1609年(慶長14年)
薩摩藩の島津氏が琉球に侵攻して薩摩藩の属国としたが、琉球王国

は明そして清へも朝貢を続けていた。

1868年
明治維新後、1871年8月29日廃藩置県を実施、琉球王国琉球藩となり琉

球国王は琉球藩主とされ華族待遇となる(第一次琉球処分)。しかし明治政府の勧告を無

視して琉球は清への朝貢も続けた。


1871年12月
琉球王国首里に年貢を納め帰路に着いた宮古八重山の4隻の船が台

湾近海で遭難し、宮古の一隻が台湾に漂着し69名の内3名が溺死、66名中54名が台湾原

住民によって殺害されてしまう。生存者12名は地元有力者に保護され、清国の福建省経由

で1872年6月7日那覇に帰国する。ちなみに日清修交条規は、1871(M4)年9月13日に天

津で結ばれている。この条約の批准は、遅れて1873(M6)年4月30日であった。

更に1873年には備中国岡山県)の船も台湾に漂着し、乗組員4名が略奪を受ける事件も

発生し、内外に台湾征伐論が高まった。

1873年
、日本政府は福島種臣外務卿らを派遣し清朝に厳重に抗議するも、清国は台湾

は「化外の地」(統治の及ばないところ)として、受け付けなかった。

このため国内の士族達の不満を和らげる狙いもあり、大久保利通明治政府台湾征伐

を決断する。これに対して英米の公使達は、当初は盛んに征伐を進めていたが翻(ひるが

え)して反対意見を述べた。このため派兵は決まらなかったが、台湾藩地事務都督に任命

された西郷従道陸軍中将は、独断で征伐軍3,600名を出動させた。

1874年6月3日
に事件発生地の牡丹社などを制圧し、占領を続けた。戦死者はわずか12

名であったが、マラリアなどにより561名もの病死者を出している。

1874年10月31日
大久保利通と総理が門大臣の恭親王との交渉で、「日清両国互換条

」が調印され落着した。これにより、清国は日本軍の出兵を義挙と認め、遭難民に対する

見舞金10万テール、戦費賠償金40万テール、計50万テールを支払い、1874年12月20

日までに征伐軍は撤退することとなった。これにより琉球民は日本人となり、琉球の日本帰属

が国際的に認められることとなり、また台湾の清国帰属も認められた。

1879年(M12)3月27日
、いまだ清国との冊封関係を維持したい琉球に対して、明治政府

首里城の明け渡しと廃藩置県を布告し鹿児島県への編入を実施し、4月4日には沖縄県

した。そして日本政府は琉球に対して清との冊封朝貢関係を禁止したため、清は日本に

抗議するなどした。これに対して交渉がもたれ、先島諸島の清国への分島なども提案され

たがまとまらず、結果として琉球に対する日本の領有権が確認された。この琉球藩を廃して

沖縄県を設置した経緯を「第二次琉球処分」と言っている。


しかし最終的な外交上の決着は、日清戦争(1895年M28年)での日本の勝利を待たなけれ

ばならなかった。

この琉球処分以降、中国(中華民国)は尖閣諸島を含む沖縄諸島全域を日本領として正式

に承認している。1920年中華民国から石垣島に送られた感謝状には「日本帝国沖縄県

八重山郡尖閣諸島
」と言う記載がある。

 

3、明治8年1875年9月、江華島事件勃発

日韓併合100年(14~)」(2010.10.3~)から引用で説明しよう。

日本と朝鮮との修交のための明治政府の外交交渉に対して極めて非協力的で無礼な態

度であったために、この無礼は許しがたいと誰もが思い、征韓論が巻き起こったのである

が、その征韓論も下火となった1875年(明治8年)5月釜山で再度政府間交渉が持たれ

た。しかしその宴饗の儀での日本大使の大礼服着用と宴饗大庁門の通過を許さなかったな

ど紛糾し、交渉は膠着した状態となった。明治政府は2隻の木造軍艦を派遣し応援するも、

交渉はまとまらずに終結する。この軍艦は長州藩が英国より購入した木造の240tクラスの

船であったが、朝鮮沿岸の測量に従事する。その1隻「雲揚」は9月に入り清国牛荘(営口)

までの航路研究を命じられ、9月20日に首府漢城(ソウル)に近い江華島沖に投錨し、役人

と面談するため端艇で江華島に向かったところその砲台から砲撃を受ける。そのため本艦

に取って返し、9月21日砲台に接近し砲撃戦を開始する。そして第三と第二砲台を破壊

する。翌9月22日には第一砲台を攻撃し占拠する。守備兵は逃げ去り、多数の民間人を

保護し負傷者を治療し食料を与え開放する。日本軍は場内から大砲36門他多数の戦利品

を手に入れ、翌9月23日に戦域から離脱する。そして1876年(明治9年)2月11日に交

渉を開始し、2月27日に日朝修好条規(江華島条約)が結ばれる。この条約は日本の安

政の五カ国条約と類似しているが、最も特徴的で異なっている点は、その第1条(第一款)

に「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国と認める。」とある。これは朝鮮

が清国の藩属国であることを考慮して特に日本が挿入した一文である。日本は朝鮮を「自

主の国」とすることで、清朝の介入をなくそうとしたのである。しかしそれでも朝鮮は清国の

属国の地位に甘んずることを選択していた。清朝も朝鮮への冊封体制を強化し始めた。

この清国の宗主権を否認することとなり、日清戦争のある意味直接的原因となるもので

ある。そのため結局朝鮮を真に独立させることは、日清戦争を待たねばならなかった。


言ってみれば、この江華島条約は朝鮮を独立国として認めお互いに友好な外交関係を築こ

うとしたものであるが、このようにいくら日本が頑張って朝鮮の独立を認めても、清国をはじ

め世界は朝鮮清国の属国と認めていた。例えば、1885年イギリス朝鮮半島南端の

巨文島を占領した時には、イギリスは李朝には通告せずに、イギリス駐在の清国大使の曾

紀沢に連絡し曾紀沢もそれを李朝政府には連絡することなく占領を了承している。国土変

更も清国の裁量しだいだったのである。1885年(明治18年)と言えば、江華島条約の9年

後のことであり、その第1条には朝鮮は自主の国だと記されているのであるのだが。

(続く)