日清戦争開始120年に考える。(26)

4、明治15年1882年7月、壬午軍乱勃発

江華島条約を結んだ閔妃(びんぴ、高宗の后、開化派)は、日本から軍事顧問を招き新式

軍隊を育成していたが、大院君(高宗の父)ら守旧派は不満を募らせていた。そして1882年

7月23日
に、大院君らに扇動された旧軍兵士らが反乱を起こし、閔妃らの暗殺を企てて漢

城に乱入し閔妃一族や政府高官らを暗殺した。反乱軍の矛先は日本人軍事顧問や日本人

語学留学生らも襲い、更には日本公使館をも襲撃した。在留日本人を収容した日本公使

館は、朝鮮政府の護衛もなく自力で防戦したが衆寡敵せず、花房公使以下28名は夜陰に

紛れて公使館を脱出せざるを得なかった。


そして28名中17名の死者多数の負傷者を出しながら、辛うじて済物捕へ逃避し小船で

漂流しているところを英国測量船に保護され、命からがら長崎に帰還することが出来た。

いち早く事変を察知した閔妃は、駐屯清国軍の袁世凱のもとに転がり込み、反乱軍を鎮圧

し大院君を天津に軟禁する。政権を取り戻した閔妃らは、開化政策から親清政策へと転換

する。


その後日本は花房公使を全権として派遣し、済物浦条約を結ぶ。日本は公使館警護のた

めに日本軍を駐留させ、賠償金として5年で50万円を受け取ることになったが、結局は10

万円しか支払われなかった。日本は、今からでも残りの40万円を現在の価値に換算して、

朴槿恵に請求すべきである。当時の1円=現在の3万円とすると、120億円ほどになろう。

これを朴槿恵に請求する必要がある。


この壬午軍乱で死亡した17名の日本人は、語学留学生も含めて全員が、靖国神社に祭ら

れている。ちなみに壬午軍乱で虐殺された日本人の死体は尋常ならざる状態であったと

言う。死体は切り刻まれ、頭骨までもが打ち砕かれており、個人の特定ができなかったと

言う。日本人と特定したのは、付着する衣類の一部が日本特有のもので、全員の遺体の損

壊状況が尋常ならざる状況ですべて共通していたからであった、と報告書にも記載されて

いる。


そして漢城には、日清両国の軍隊が駐留することとなり、2年後の甲申事変へとつながっ

てゆく。

 

5、明治17年1884年12月、甲申事変勃発

朝鮮では閔妃一族が親清政策(事大政策)に転じたため、開化派は危機をつのらせる。

化派
金玉均らは日本の政財界の代表者たちに接触し近代化の構想をはぐくみ、福沢諭吉

らは熱心に支援する事となる。開化派は国王を頂点とする立憲君主制の樹立を企て国王

高宗を取り込み、クーデターを計画する。1884年(明治17年)12月に郵征局の開庁祝

賀パーティーの際に放火し、その混乱に乗じて守旧派の高官を倒し、高宗はそれを名目に

日本に保護を頼み、日本軍は朝鮮国王を保護し開化派が国王をトップとする立憲君主制

国家を樹立すると言うもの。しかも1884年から1885年にかけて清国はベトナムをめぐっ

てフランスと清仏戦争を戦っていたので、朝鮮の駐留清軍は半減している。そして1884

年(明治17年)12月4日
に計画は実行され、そのクーデターは成功する。そしてその日の

うちに金玉均を首相とする内閣は国王の稟議を経て成立し、清国への朝貢を廃止するなど

決めたが、即座に袁世凱率いる清軍1500人が王宮を警護する日本軍150人を攻め、日本

軍とクーデター派は敗退してしまう。漢城市街では清国軍人によって多数の在留日本人

殺され、略奪
されている。特に婦女子30余名清国兵陵辱され虐殺された。そして金玉

均らは日本へ亡命するが、残った開化派人士やクーデター派の三親等までの親族が残忍

な方法で処刑されている。その後日本と清国の間に1885年(明治18年)4月18日に「

津条約
」が結ばれる。これが甲申事変である。


条約の内容は、

(1)日清両国は4ヵ月以内に撤兵を完了する。

(2)日清両国は朝鮮に軍事顧問を派遣しない。朝鮮は日清両国以外から軍人を招致する。

(3)朝鮮に出兵する場合は相互通知を必要とする。派兵後は速やかに撤退し駐留しない。

(4)日本人殺傷事件を調査し、事実であれば処罰を行う。


などが決められたが、相互通知(「行文知照」)の「照」の字は「中国の天子の了解を得る手

続き」と理解され、中国側では日清両国共に中国の天子に「照会」をとると、曲解して解さ

れた。


だから、外交交渉は十二分に注意して揚げ足を取られることのないように、語学力はもちろ

んのこと、特に中国の場合は相手の意図せんとすることを広く考慮して、歯止めをかけてお

くことが必要なのである。「革新的利益」なんぞに誑(たぶら)かされて尖閣諸島を取られるこ

とのないように、十二分に準備することが必要なのである。それには尖閣諸島への自衛隊

の駐留が是非とも必要なことなのである。それにしても日本軍は駐留清国軍対抗出来得

るだけの戦力
を準備しておかなければならなかったのだ。


さてこの女・子供を含む近親者への残酷な処刑は、中国・朝鮮への憎悪を福沢諭吉らに呼

び起こさせて、福沢諭吉の「脱亜入欧」論を発表させることになり、日本近代化の方向性が

定まるきっかけともなっている。そして日本軍の惨敗結果が反省され、後の日清戦争

は大いに役立った
と言われている。
(当ブログ「日韓併合100年」2010.11.05~より引用し

ている。)

この天津条約に違反して、中国(清)が秘密裏に朝鮮に軍隊を出兵させたことから、日清戦

争は始まっているのである。

 

6、明治18年1885年、明治19年1886年の第1次、第2次露朝密約事件

そして朝鮮の安定化のためにロシアが朝鮮中立化案などを提案し、清朝の関係にロシア

が首を突っ込んでくる。1885年には、朝鮮の外務次官を勤めていた
ロシア人メレンドルフ

不凍港の租借を画策しその代わりロシアが単独で朝鮮を保護すると言う密約を提案し

たが、清の李鴻章に反対されメレンドルフは失脚する。翌年の1886年には朝鮮政府から

ロシアに密書が送られ、紛争時に軍事的保護を要請するものであった。ロシアを引き込み

清の圧迫に対抗する意図があった。しかし密告により袁世凱の知るところとなり、国際問題

化した。これを第1次、第2次露朝密約事件と言う。1885年4月の天津条約では、日清以

外の国から軍事顧問を招聘することとうたわれているので、ロシアが首を突っ込んできた

のか。同年4月15日には、イギリス海軍軍艦による巨文島占領事件が発生している。これ

もロシアの永興湾一体の占拠を阻止するため、南下を恐れたイギリスが起こしたものであ

った。永興湾は元山(げんざん)の麓、朝鮮半島のウサギの耳の付け根の日本海に面した

ところに位置している戦略上の要衝となるところであるが、巨文島占領はロシアの強硬な

反対のために、2年ともたなかった。1840年前後には、ロシアのアフガニスタンへの進出

を阻止するためイギリスは、アフガニスタンを保護下においていた。そのため
朝鮮へのロシ

アの進出
をイギリスは極端に恐れていたのであった。ヨーロッパでもロシアはフランスと同

盟をむすぶ事となる(1891年)。このためイギリスは東アジアでもロシアを押さえるため

に、日本に接近することとなる
1894年(M27年)日英通商航海条約)。(当ブログ「日韓

併合100年」2010.11.08~より引用している。)

(続く)