日本は朝鮮への兵員や物資の輸送のため制海権の確保に躍起となっていた。と言うのも
清国の北洋艦隊は持久戦を狙い戦力の温存をはかって、なかなか威海衛から黄海へ出て
こなかったからだ。
威海衛は山東半島の先端に位置し、渤海海峡に面しており、丁汝昌率いる北洋艦隊の母
港である。1898年にはイギリスの租借地と成るが、イギリスの東洋艦隊の基地としての不
適切(湾口が広すぎる、後背地がない)なために重要視されなかった。
しかし平壌の戦いの翌日1894年9月16日の夜中1時頃、陸兵4000人の輸送船団を護
衛して、北洋艦隊が朝鮮平壌に向かった。9月17日任務を終え鴨緑江河口付近にいた北
洋艦隊と、索敵中の連合艦隊は夫々の煙でお互いを発見する。北洋艦隊は横列陣をとり、
連合艦隊は単縦陣で激突する。北洋艦隊は船首に設けた衝角(しょうかく、船首を敵の船
腹にぶつけて突き刺すもの)を、日本艦の横腹にぶつける戦法を取った。しかし日本連合
艦隊は速力に勝り、しかもより速い巡洋艦4隻、「吉野」、「浪速」、「高千穂」、「秋津島」の
第一遊撃隊(坪井航三司令長官)が先行し、伊藤すけゆき連合艦隊司令長官の本体6隻
(「松島」「厳島」「橋立」「扶桑」「千代田」「比叡」)が続き、速力が勝ったため接近戦とはな
らず、完全な艦隊同士の砲撃戦となった。このほかに赤城(623t)西京丸(木造船4100t)が
通報艦として参加した。連合艦隊では三景艦の4278tが最大の艦であった。
これに対して清国北洋艦隊は、戦艦2隻「定遠」「鎮遠」(7335t)、「来遠」「経遠」(2900t)
、「靖遠」「致遠」「済遠」(2300t)、「平遠」(2100t)、「超勇」「揚威」「広甲」「広丙」(1350t
~1000t)のお互い12隻の軍艦が接近していった。そして距離5,800mで定遠の30cm
砲が火を噴いた。ここに「黄海開戦」の火蓋が斬って落とされた。
日本艦隊は遊撃隊と本隊とに分かれ、高速を利用して北洋艦隊を挟み込む戦法を取り、
北洋艦隊を追い詰めていった。そして戦闘開始30分で「超勇」「揚威」が沈没し、「済遠」が
旅順に遁走してしまった。そして「致遠」も沈没する。日本本隊の旗艦「松島」も戦艦
「定遠」「鎮遠」2隻に集中砲火を浴び、速射砲の大半が破壊された。そのうちに「経遠」が
炎上、沈没そして「広丙」も沈没し、「定遠」「鎮遠」も多数の被弾を受けその戦闘能力を奪
われていた。そして日没にまぎれて北洋艦隊は旅順港に逃げ込み黄海海戦は終了する。
日本連合艦隊は、旗艦巡洋艦「松島」、巡洋艦「比叡」、仮想巡洋艦「西京丸」砲艦「赤城」の
4隻が大破している。
黄海開戦(鴨緑江海戦とも言う)はかろうじて日本軍の勝利に終わるも、日本連合艦隊の
旗艦「松島」が大破したため追撃戦を断念している。「松島」の3等水兵の三浦虎次郎が
「鎮遠」の砲撃に重症を負うも、「いまだ沈まずや定遠は」と戦況を心配したという。これは
軍歌『勇敢なる水兵』に一節である。そして明治天皇御自ら『黄河の大捷』という詞を残して
いる。
大捷とは大勝利のこと、大勝のことである。
『日清戦争黄海海戦』
http://ww1.m78.com/topix-2/battle%20of%20yalu.html
によれば、旅順港に逃げ込んだ北洋艦隊は陸上から包囲されて威海衛に逃げ帰った。
そして日本海軍の水雷艇攻撃と地上からの攻撃により全面降伏させた。
ちなみに定遠は1895年(M28年)2月5日、日本水雷艇の夜襲により雷撃を受け擱座し、
砲台として戦闘を継続していたため、9日日本軍は陸上から攻撃した。そのため捕獲を避け
るため10日に自沈した。自沈した定遠は翌年引き上げられ、福岡県太宰府市には定遠の
艦材を使った「定遠館」と言う記念館が出来ている。そして鎮遠は日本海軍に鹵獲(ろかく、
敵の物を分捕る)され日本海軍に編入される。日露戦争の黄海海戦、旅順港攻略戦、日本
海海戦にも参加し、1911(M44年)に除籍、解体されている。以上Wikipediaを引用して
いる。
『日清戦争 概説2』
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-nissin2.html
によれば、清国北洋艦隊は5隻が沈没、6隻が大中破、死傷者1,000名となっている。
これに対して日本連合艦隊は、大中破4隻(松島、比叡、赤城、他)、死傷者240名と言う
結果だった。
この結果、黄海をはじめ朝鮮近海の制海権を日本側が掌中に入れ、日本から朝鮮への
戦力の輸送をはじめ我が陸海軍の作戦は極めて有利に進むこととなった。
幸いにも日清戦争は、このような経過をたどりながら日本の勝利となったものの、もしも
日本が負けていたとしたらどんなことになっていたであろうか。南西諸島や場合によっては
鹿児島県などは、清国に割譲されていたかもしれない。尖閣諸島どころの問題ではない。
そして朝鮮は完全に中国のものとなり、搾取され続けていた事であろう。だから朝鮮の近
代化は、ずっと遅れていた事であろう、否、近代化はされなかったことであろう。
しかし清国の落ちぶれた状況を鑑(かんが)みると、朝鮮はロシアに取られていたであろう。
だからどちらにしても朝鮮と言う国は無くなっていた筈だ。中国もどうなっていたかわかった
ものではない。
現代の中国は、明らかにならず者振りを強めている。もともと馬賊・匪賊の国柄であるか
ら、南シナ海の状況が落ちついてきたので、今度は東シナ海への侵略を強めてくる事であ
ろう。
その中国の「日清戦争開戦記念日」では、盛んに甲午戦争を振り返るキャンペーンを張っ
ている。
このことはすでにこのブログでも述べているので今更という感もあるが、中国の内部では、
この日清戦争(甲午戦争)の敗北の原因は、どちらかと言うと日本の大陸征服と言う明確な
戦略にあった、などと自分勝手な屁理屈をつけており、だから「中華民族の偉大な復興」の
原点はこの甲午戦争での敗北だなどと、人民に強調している。
しかも東日本大震災や直近の広島での土砂崩れなどの災害のあとには、日本は好戦的に
なりやすいなどと、盛んに日本への侵攻を示唆している。
(続く)