中国の不法で無法な夢(11)

    遲浩田「戦争が正に我々に向ってやって来る」

  同志諸君

  この題目を掲げるのは氣分が重い。中国の近代化はその過程で屡々外部勢力の打撃と直接侵略を受けて中断して来たからだ。典型的なものとして 192737年の「黄金の十年」がある。この十年は、今から見れば全然黄金ではない。その間に31年の九一八東北陥落と冀東傀儡政権の成立があった。それでも他の時期と較べるとこの時期の中国経済の発展速度は速く、インフラ整備にかなりの進展があり、軍隊建設にも勢いがあって、中国に希望が見えた。しかし日本はこれを容認しなかった。東三省を併呑しただけで満足せず、待ち切れずに全面的侵華戦争を発動した。中国はやむなく焦土抗戦し、苦戦すること 8年。中国は惨勝したものの外蒙を失い、満身創痍、財産の損失は6000億ドル以上に達し、 8年の戦火によって元々貧弱な中国は更に一窮二白となった。日本の侵略、特に全面侵華戦争は大きく中国の近代化を遅らせた。

(筆者注)全面侵華戦争にあらず。ソ連コミンテルン指令により、国民党軍と日本軍をわざと戦争させて、その間隙を縫って紅軍(中国共産党軍)をして中国全土を赤化させ、あわよくば日本まで赤化させようとした。そのため紅軍と国民党軍とは、協力して日本軍を全面戦争へと導いた。盧溝橋事件、第2次上海事変などは中国共産党軍が引き起こしたものである。現在は、この上海事変中国共産党と結託したドイツ軍事顧問団による援助なしには起こりえなかったと言う事実が明らかになっている。

筆者の下記ブログ、
'07.07.04~日中戦争中国共産党が引き起こしたものだ」
'08.12.19~日本は侵略国家ではありません。」などを、参照のこと。

  中国の発展を許さず、近代化の進行を阻害することが列強、特に日本の不変の国策だった。我々はこれを最も痛切な歴史の教訓とせねばならない。国家間には協力もあるが、本質は競争・衝突、そして衝突の極致としての戦争だ。協力は一時的で条件付。競争と衝突は絶対的で歴史の主軸なのだ。従って所謂平和と発展が現代の主題とする論は全くの間違いだ(精々便宜的なものでしかない)。この種の論法は、検討に耐え得る理論的根拠を欠くばかりか、事実とも歴史経験とも合わない。

  中日両国が地理上も歴史上も両立が叶わぬ死敵の関係であることは言う迄もないが、60年代の中ソ分裂もまた、どの国も国益追求を唯一の行動基準とし、道徳が介在する余地など寸毫もないことをたっぷり説明するものだった。當時、中ソ間には共通の イデオロギー があり、共通の敵と対峙し、しかも科学技術のレベルが低い中国はソ連にとって脅威から程遠かったが、それでも中ソは分裂したばかりか、鋭く対立するに至った。そこに至るまでの原因や端緒は数々あったが、根本原因はソ連が、日増しに発展・強大化する中国が自国と肩を並べる状況など見たくもない点に在った。中国が肩を並べる事態などなお遠い将来のことであっても、それを許さなかったのだ。イデオロギーも敵も共通し、強弱の差が著しい中ソ間でも分裂したのだから、所謂「平和と発展」を現代の課題とする呪文を掲げた中国の政略・戦略・外交の虚妄性・脆弱性・危険性は明らかだろう。「平和と発展」を現代の主題とする主張は全くの誤り、独善の塊、心身を麻痺させる有害な学説だ。そう断ずる理由は下記の通り。

一、列強の一貫する国策は「中国近代化の進行過程を叩き潰すこと」だった
  中国近代の歴史経験と教訓、更に中華人民共和国50年来の歴史経験と教訓に照して、次のような歴史規律──列強の中国近代化の進展過程に対するる打撃 (全面戦争を含む) がその一貫した国策──があることが判る。過去 160年間そうだった。今後 の 160年間もそうに違いない。

二、発展は危険と脅威を意味しており、「戦争権」抜きの発展権はない
  発展が危険と脅威を意味するとは、世界史の通則だ。但し中国史に特例がある。大漢王朝だ。当時の地理の極限内にある敵を全部打破った後に「門戸を閉ざして」発展し、更に「天下主義」まで生み出した。そんなことが出来たのは、人口・軍事・経済・文化のどれを取っても、いかなる種族も大漢民族には匹敵できず、匹敵するだけの潜在能力さえ無かったからだ。

(筆者注)この大漢王朝は列強として、他国の発展過程を叩き潰して、他国を隷属させただけのことである。遅浩田は、中国を列強にしようとしている。まことに野蛮極まりない。こんな蛮族の住む国がすぐ近くにあるのである。さあ、日本はどうする!

  戦国時代には、一国の発展は他国の脅威だというのが世界史の通則であり、西側外交の核心・基盤である。西側外交の開祖は フランスの赤い法衣の主教リシュリューだが、正に彼こそ外交領域に於て中世の「蒙昧」から抜け出し、近代外交の道を開いて道徳・宗教の束縛を一切捨て去り、国益を軸にした最初の人物だ。彼が制定した外交政策は フランス に 200年以上に亙る恩恵を齎し、欧州の主宰者たらしめた。彼が画策した三十年戦争はドイツ人民を塗炭の苦しみに追込み小国分裂状態を現出して、ビスマルクが統一するまで動揺常ならずという状態に置いた。ドイツ統一の進展過程を見れば ビスマルクの「戦争権」がなければ国家統一はなく、発展権など更になかったことが判る。

三、中国には「軍刀下の近代化」しかない
  中国脅威論は全く正しいというのが、典型的な西側の考え方だ。「我々は門戸を閉して自分の経済を発展させる。誰にも迷惑をかけない」という中国の考え方は愚劣なばかりか、国際基準に合わない。戦国時代、国益という殘忍な領域は情け容赦がない。僅かでも幻想を抱いた者は、忽ち大歴史の残酷な懲罰を受けた。中国の発展を日本は当然脅威と感ずる。中国自身がそう思わずに居られても、中国には、日本など列強の国際標準に基づく根深い発想を変えるる力など殆どない。そこで我々の思考の出発点は「中国の発展は日本など他国への脅威」でなければならぬ。

  「理」論上はどの国どの民族にも生存権・発展権がある。例えば、中国経済が発展すれば石油の輸入が必要になる。生態保護のため中国が山を囲って森林を育てれば、木材資源を輸入せねばならなくなる。「理」の当然極る事態だが、列強には列強の「理」がある。中国ほど図体のでかい国が石油を買入れ、購入量が 2010年に 1億トン、2020年に 2億トンに達するとなれば、列強はこれを容認できようか?

  基礎的な生存資源 (土地・海洋を含む) の争奪は史上、絶対多数の戦争の根源だった。情報化時代には多少変るにしても、本質的変化はない。発展した先進文明国 イスラエルも、水源を含む「より大きな土地」を巡って50年間 アラブ, パレスチナと一日も休まず戦っているではないか。中国人が永遠に貧困に安んじて発展を放棄するのでない限り、正当極る発展権を獲得するため、中国は戦争準備を整えねばならぬ。これは我々が決めたものではない。我々の中の一部の善良なる人々の善良なる願いにより決めたものでは更にない。「国際慣例」と列強が決めた事態なのだ。

  中国の20年來の「平和と発展」政策は、既に終着点に達した。国際環境にも既に質の変化が生じ、列強は既に中国の近代化進行過程を再び断切る準備を整えている。だから中国が発展を求めるのなら、自らの発展権を守るため、戦争準備を整えねばならぬ。戦争準備をして初めて、発展の時間と空間が得られるのである。ここ20年来の牧歌的な平和発展の時代は既に終を告げている。次の場面は「軍刀の下での近代化」しかない。

四、 () 外交が内政を決める
  中国で現在最も好戦的な鷹派でも、必ずしも今すぐ戦争せよと主張している訳ではない。我々には、例えば国家統一の戦いや南シナ海の権益を守るためなど、戦争するに足る充分な理由がある。つまり発展権のためなのだ。 160年来、殆ど認められずに来たからこそ、頗る貴重となった発展権を守るためなのだ。その発展権が日に日に高まる脅威を受ければ、我々は武器を採って中国人の発展権を守らねばならない。

  内政が外交を決めるというのはその通りだが、この戦国時代に於て銘記すべきは、 () 外交も内政を決めていることである。これは理論上そう言えるばかりか、中華人民共和国の歴史的経験からも言えることだ。70年代の中国の国防支出は、科学・教育・文化・衛生支出の合計を上回っていた(人民の生活が甚だ貧しかった)。私は勿論、今の中国の軍事支出が、今の科学・教育・文化・衛生支出の合計を上回ることは望まない。実際に中国で最も投資を必要としているのは教育である。しかし列強はそれを許すだろうか? なぜ毛澤東は、科学・教育・文化・衛生に回す資金をけちったのか?

  ソ連で公開された機密文書を見て6070年代のソ連には中国への全面的侵略計画がなかったという者が居る。仮令その通りだとしても、やはり「歴史の真実」は説明できない。対局は全て相互作用である。毛澤東指導下の中国が充分な精神的・物質的準備をしていたればこそ、ソ連の全面的な中国侵略のリスクもコストも極めて大きくなり、歴史の方向を変えたのだ。これを見れば、力と意志こそ本当の平和防衛者であることが判るだろう。軟弱な者は侵略を招くだけなのだ。この点から言って、毛澤東こそ真に平和を護った者である。

(筆者注)日本もこのようにして、中国から自国を護らねばならぬ。日本を攻めれば、それ相応のリスクとコストが掛かり莫大な損害を蒙るように、日本の国防政策を準備しなければならない。

五、善を求めて悪を得る 中国は今後十年、平和であり得るか
  中国の近代化の進展過程をぶち切り、中国人から発展権を奪うため、列強は山ほど切札を切れる。最も明かな三枚の切札 が「三島」だ。そのうち台湾札が最も有効である。台湾海峡の戦いは何時勃発するか。その決定権は中国の手のうちにはなく、台独分子の手にもなく、米日が握る。もし台湾海峡の戦いが始れば、それは単なる統一の戦いに留らない。更に深層的には米日が中国人から発展権を剥奪し、再び中国の近代化の進展遮断を決意したことを示す。正しく歴史上の甲午の戦い (日清戦争) や全面的な中国侵略により日本が行ったのは、領土や賠償金の獲得だけでなく、もっと本質的には中国の近代化過程をぶち切って中国人の発展権を奪うものだったが、同じ事態が再現するのである。

  そこで我々は戦略決戦の高みから台湾海峡戦争を取扱わねばならない。我々の現在の武力水準では、米日にとって戦略決戦ではない。特に米国にとっては。なぜなら、中国には大陸間弾道ミサイルが少なく(尠く)、米国は既に本土ミサイル防衛 NMD を発展させる決意を固めたからだ。

  台湾海峡戦争勃発の引延しを阻止するには、先ず台湾海峡の戦いを「対称戦略決戦」レベルに引上げ、共倒れの段階に持込まねばならない。我々が台湾海峡の戦いに勝てないと、結末は甲午戦争敗戦時より悲惨なものとなる。だから戦わずば万事お終い、戦わば日本を完全破滅させ、米国を半身不隨にせねばならぬ。これは核戦力だけが出来る任務である。

  善を求めて悪を得る、これが、我々現下の政策の最終結末である。悪を求めて善を得る、つまり日本を全面的に壊滅し、米国を不具に陥れる能力を備えて初めて平和が勝取れるのだ。こうしない限り、台湾問題で10年も経たぬうちに必ず大戦が起きる!

六、覇権は大国の本質的特徴
  何を以て大国というか。覇権保持者が大国だ。覇権がないと分割され、運命 (発展権を含む) を他者に支配される木偶(筆者注、もくぐう、木の人形)と化す。覇権は今のような戦国時代に於ては客観的存在で、「他者の意志に依らずに方向転換するもの」だ。問題は、それをはっきり意識するのか、主動的に追求するのか、それとも受動的に向こうから近づいて来るかの差に過ぎない。三島問題、戦略産業発展問題、国内各階層の利益調整問題を含む中国の一切の問題は、最終的には中華民族による覇権争奪問題である。

  覇権を争うためには内紛の停止、安定と団結が必要だ。英国は海外殖民地の巨大利益により、早々と「労働者階級の貴族化」が実現した。日本は中国から巨額の賠償金と市場を取って上層ばかりか下層階級にまで巨大な利益を齎した。(筆者注、日本が中国の内戦に引っ張り込まれなければ、もっと発展していた。中国共産党のために、日本の発展は大分遅らされてしまった。)時代は変り国情も違ってきたが、実質に変りはない。我々は覇権の視角で軍事外交問題を扱うだけでなく、更に覇権の視角で内部の階層・階級利益の調整問題も見なければならぬ。本国の下層を圧迫搾取するだけの上層エリート階級は、この戦国時代に於て民族の利益を代表出來ない。彼らは腐敗・墮落した意氣地なしであり、圧迫され、消滅する存在だ。成熟し知恵のある上層であって初めて民族利益を代表できる。つまり対内的には「譲歩政策」を実行して下層を指導し、共同で海外から利益を獲得出來るのだ (この問題は複雑につき、後日詳述する。中国は巨大な海外利益を持つが、まだ積極的主動的に開発に乗出していないだけだ)

  →伊原コメント:
  「覇権を争う者は他の覇権の台頭を抑えようとする」という国際政治の力学の基本認識で徹底する点は "爽快" な程。

  だから反撃力を持て、というのが妥當な結論。
  日本はこの認識を欠くので独立を守れない。
  だが遲浩田は飛躍して、隣国日本の殲滅・覇権国 アメリカ の 半身不隨化を説く

  恐るべき独断と独善、被害妄想。自分の努力不足を棚に上げ、一方的に相手が悪いとして復讐のための軍拡に逸る。「狂人に刃物」の中国軍とその指導者!

  彼らは核を持ち、運搬手段を持ち、宇宙まで征服しようとしている。
  「皆殺し」の対象にされた日本は、反撃力を持つべきである。

  シナの闇の深さは、ニヒリズムと恐怖政治・同志粛清政治を生んだ ロシヤを遙に凌駕する!
http://jas21.com/athenaeum/athenaeum98.htm

 

将に伊原吉之助教のコメントの通りである。中国は、特に中国人民解放軍は、日本を殲滅する意図を持っている。そのために日本に向けた中・長距離弾道ミサイルに核弾頭をつんで、常時配備している。一旦事あれば、と中国が判断すれば、必ずや核弾頭を積んだ弾道弾を日本各地に向けて発射してくる。日本はまるで無防備だ。こんなことでよいのか。良いはずはない。中国の核弾頭ミサイルは200発以上と言う。少なくとも日本にミサイルを撃ち込めば、「中南海は火の海になる」かも知れないと言う恐れを感じさせるだけの国防を日本は備えておかなければならない。それには憲法9条は邪魔だ。早々に破棄しなければならない。あの憲法前文も、当然破棄だ。

(続く)