戦後70年談話はヒストリーで!(31)

ここら辺の事情を、黄文雄は「朝鮮は日本人がつくった」の中では、さらに次のように述べている。

 

朝鮮近代史では、輸出による米価の高騰、日本商人による流通の支配、朝鮮商人の従属化、朝鮮農民は正確な米穀の相場を知らずに米穀商人の言い値で売り渡すことを余儀なくされた、などという記述が目に付く。

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この「逆ザヤ制度」は、すでに戦前の朝鮮でも施行されていた。つまり、日帝36年の農業政策は、日本国内の農民よりも朝鮮の農民を手厚く保護していたのである。

さて、こうした食糧事情の好転、また前述した衛生事情の良化により、朝鮮半島の人口は次第に増加して言った。

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豊かになったがゆえに人口が増えたのであって、日帝が搾取し朝鮮の民を貧困のどん底に陥れていたなら、このような増加などありえるはずもない。食料が欠乏している状態では、子供を増やすことなど考えられないからだ。

また、韓国人が非難するような大虐殺があったというなら、なぜかえって人口が増えているのか説明してもらいたいものだ。


 

もう一つ黄文雄氏の「韓国は日本人がつくった」に載っている話を紹介しよう。

 

1908年(M41)に設立された東洋拓殖株式会社は、Wikipediaによれば、大韓帝国と日韓民間資本の共同出資などで設立された日本の国策会社である。この会社は名前が示すように、朝鮮の土地を所有して、日本からの移民の農業開拓を事業とする会社である。東拓は、上記文書によれば、「日本内地の農民を15回にわたって半島に招致し、移民に農地をあてがい、耕作を推進したのである。東拓による移民のいいところは、良田ではなく荒地を移民に与え、不毛の地を耕地に開拓したことであった。」

嘘の好きな朝鮮韓国人は、次のように批判しているという。

 

日帝は植民地政策のひとつとして、朝鮮の土地所有権を明確にするための土地調査事業を行った。しかし、字の読めない人も多く、近代的土地所有の概念もなかった朝鮮農民は、土地の申告をしなかったために、多くの土地は日本人地主の手に渡ってしまった。

これによって、朝鮮最大の日本人地主となったのが東拓である。東拓は、日本国内の食料を確保するために朝鮮米を植えさせ、内地に輸出する産米増殖計画を行った。逆に朝鮮農民は飢え、土地・食料を奪われた朝鮮人は日本本土や中国東北地方へ流出せざるを得なかったのである。

しかし事実はこれと全く反対であった。朝鮮総督府は朝鮮農民を保護するために、東拓には、土地の買収を規制し、さらには国有地の処分においても東拓には譲渡せず、自作農創設として朝鮮小作人に分譲したため、東拓の移民事業は早々に挫折してしまったという。

 

しかも朝鮮の土地は、黄文雄氏によれば、王田王土が建前で、土地の所有者は両班や地主の手にあり、字の読めない小作人はもともと土地など持ってはいなかった。だから「字の読めない朝鮮農民の手から土地を騙し取った」などと言うことは、真っ赤な嘘で、卑しく意地汚い朝鮮人がつくった捏造なのである。それを、日韓合邦の真実を知らないか、知っていても真っ赤に染まったコミンテルンの手先となって日本を貶めることに快感を感ずる頓馬な日本人学者達が、言っているだけのことなのである。
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一寸長くなるが、朝鮮に渡った日本農民の苦労を語っているものを、「韓国は日本人がつくった」の中から、次に引用したい。

 

朝鮮には数千年の歴史があり、土地には固定した地主がすでに存在していたため、新田開発はかなり困難であった。それもあって、日本農民が朝鮮で開拓した農地は、後に言われるほどの良田ばかりではなかった。大河の遊水地で交通不便、さらに少々の塩害がある地を開墾地として開拓したケースも少なくない。

 

例えば江西干拓事業では、3500町歩(約3150ha)の干潟や沿岸草生地、李完用の一族から買った黄海道東部(平壌の東の山地か)の山地にある高原地帯などを開拓していた。それらはもちろん、地味不良で有機物に乏しく、灌漑用水も上がらず、水田にもならない不毛の地であった。

日本人はわざわざ朝鮮に行って、こんな不毛の地を耕していたのだ。それなのに、東拓を含めた日本の農業移民が、朝鮮半島の美田、良田を強奪したなどとはよくも言ったものだ。美田を専有していたのは、ほかでもない朝鮮人自身である。

 

日本人は、朝鮮の農民が一顧だにしなかった不毛の地を開墾し、僻地の干拓を行っていたのだ。交通不便な地に行く場合は、汽車から降りると家族全員で牛の背に乗り、荷物を牛車に載せて遠く離れた土地まで延々と行く。行った先に待っているのは、耐乏生活と厳しい農地開拓である。

 

この日本人の地道で真面目な努力によって、朝鮮半島は数千年の農業国家では考えられないほどの農業革命を経ることができたのである。それもこれも、すべて日本人の手によって実現したことなのだ。

このようにして日本人と日本は、朝鮮を飢餓から救ったのだ。現在でも朝鮮は頓馬の集団だ。超のつく頓馬集団だ。日本による統監府、総督府の朝鮮統治が、農業は農業でも、焼畑的な原始的な農業以外にはなんの産業もなく、資源も技術もなかった上に、産業のための人材も実学教育もなかった朝鮮を、わずか36年の内に近代化へと導いたのである。今もって、ただ抽象的に土地を奪った、資源を奪った、人命を奪ったなどと、内容のない中傷ばかりを繰り返す頓馬な朝鮮人にとって、日本による朝鮮統治時代に人口と食料が倍増していることを、頓馬な朝鮮・韓国はなんと説明するのか。

 

そして更に日本は朝鮮の工業化も推進して言ったのである。

(4)朝鮮における農地改革・治山治水と電源開発

 

これらの状況も小生のブログ「日韓併合100年」を引用しながら、説明しよう。


(1) 土地調査と米の増産


朝鮮の土地はもともと土質に劣り、しかも農地と言う農地は、両班がほとんど所有していた。しかもそれらの土地は、長年にわたり農民達から(両班が)強奪したもので、しかもなんら農地改良や治山治水といったことは行われていなかった。そのため農業生産性は極端に劣り、しかもその少ない収穫の半分以上を両班が強奪していたから、毎年のように飢饉が続いていた。

 

この状況を改革していったのが、日本の統監府であり、総督府であった。財政顧問として派遣された目賀田種太郎は、李氏朝鮮のカオス(と言ってもよい財政・経済状況であった)の建て直しに、李朝の朝廷関係と一般行政関係」との金の流れを分け、次に「貨幣の整理」してゆき、そして「租税、地租制度の確立」をはかったのであった。そして目賀田種太郎の最大の功績は、彼が1910年から1918年にかけて実施した公明正大な「科学的全国土地調査」であった。


日韓協約については小生のブログ「日韓併合100年」の2011.9.20NO.156以降などを参照願うが、土地調査に関しては2011.10.13NO.171~からの引用を次に示す。

 

近代国家となるには、税金の徴収が円滑に行われていなければならない。そしてその基礎となるものは、土地制度が成立していなければならない。李朝末期のこの体たらくでは、とてもじゃないが朝鮮は近代国家への脱皮は不可能であった。

 

黄文雄の「朝鮮は日本人がつくった」によると、

 

朝鮮総督府1910/3月に土地調査局を開設し、全国的な規模での土地調査を始めた。この責任者が目賀田種太郎であった。この土地調査は、1910(M43)から1918(T7)にかけて、当時のお金で200万円の予算で実施されたと言う。そして土地所有者、価格、地形、地貌、坪数、などを整理し、地図作成を行っていった。当時は、課税されている土地の外に課税されていない脱税地が半分近くあり、さらには公簿にも記載されていない隠田(おんでん)も多数存在していた。課税されない土地や隠田は、両班や地方官僚などが横領したものであった。だから国税は減る一方で、両班の専横が横行していたのであった。さらには土地の広さは、その収穫高が単位であったため、徴税精度もいい加減なものであった。これを結負(けっぷ)制と言う。

 

しかしこの朝鮮総督府の全国土地調査によって、穏結(おんけつ、隠田)が一掃され結負(けっぷ)に代わり町反・坪制に変わった。この調査により、土地面積は、187万余人、487万余町歩と、公募土地面積272万余町歩から倍近く増大したと言う。この公明正大な土地調査は、それまで甘い汁を吸ってきた両班たちを大いに困らせることになる。そのため不服申し立ても多く、朝鮮総督府はそれらの不服申請も、高等土地調査委員会1920(T9)まで受理して解決して言った。けっして問答無用方式で、土地調査を行っていったものではないのである。

 

この結果黄文雄氏は、さらに次のように続けている。

(続く)