戦後70年談話はヒストリーで!(36)

10満州事変中国共産党軍閥によって惹き起こされたものだ。

   日本軍は侵略などしていない。

 

1911.10.10に起こった武昌蜂起により武漢三鎮が革命勢力に押さえられ、曲がりなりにも中華民国が作られる。これに対して清国は袁世凱に討伐を命じたが、中華民国の臨時大総統に就任した孫文は、とても勝ち目がないことを察して、袁世凱と取引して臨時大総統の座を譲る。それと引き換えに清朝宣統帝の退位を、袁世凱に頼み込む。清朝の乗っ取りを企んだ袁世凱はその話に乗り、宣統帝を退位させて清朝は滅亡する。

 

臨時大総統の座を仕留めた袁世凱は、1913.10.10に正式に中華民国大総統に就任している。袁世凱中華帝国の帝政復活を画策して、日本に支援を求める。しかし1914.7.28第一次世界大戦が勃発して、日本は日英同盟を結んでおりその関係で、山東半島のドイツ権益地を攻略して占領して、ドイツの権益を譲り受けることになる。

 

袁世凱はドイツ権益を日本に譲りやすくさせるために、自ら「この内容で日本から中華民国へ要求してほしい」と、「対華二十一カ条要求」の基となる内容を日本に知らせてくる。その見返りは、袁世凱の帝政復帰を認めることであった。

 

日本は「対華二十一カ条要求」を袁世凱に要求し、袁世凱1915.12.12に念願の中華帝国を宣言してその大皇帝となった。しかし大皇帝は多方面から猛烈な反発をうけ、1916.3.22に取り消さざるを得なかった。

 

1919.5.4第一次世界大戦パリ講和会議で、山東半島などのドイツの権益は日本が継承することが承認される事となった(ヴェルサイユ条約)。

 

これに反対する運動がコミンテルンの扇動で起こる。共産党に扇動された北京の学生達が反対運動を起こし日貨排斥運動となる。これを五四運動と言い、コミンテルン中国共産党が、乱立する軍閥勢力を日本に向かせるために仕組んだものであった。

 

事実1926.11.22のモスクワでのコミンテルン第七回拡大執行委員会では、中国で共産革命を起こすと言う議題が採択され、当時勢力を増していた蒋介石をして共産化の手段として使うことが議論された。

 

満州勢力(奉天派と呼ばれていた)の張作霖は、このドサクサに北京へも勢力を伸ばし北京政府を掌握していたが、蒋介石の攻勢にこらえ切れずに満州に戻ることになり、1928.6.4満州へ引き上げる。その途上の張作霖の列車を、関東軍が爆破させて殺害する。

 

なぜ日本軍が張作霖を爆殺したかと言うと、張作霖満州勢力が盛んに日本居住者を迫害していたからであり、日本としてはその張作霖満州政府や南京の蒋介石政府に、満州の安全確保を訴え続けていた。しかし日本人排斥は強まるばかりであったので、張作霖張作霖奉天軍の排除するも止む無しとの結論となったものであった。

 

それと言うのも、張作霖奉天を離れている隙に、コミンテルンの意を受けた共産勢力が一層勢力を増し、入植していた日本人は激しい迫害を受けていたのであった。その内容を小生のブログ「支那事変の真相」より引用する。

 

1928.6.4 しかし満州では「商租禁止令」など日本人が借りている土地・家屋の強制的      回収策が実施され、特に満州での日本人居住者への迫害が激化していった。

更には日本の権益である南満州鉄道に並行して鉄道を敷設し始めたりした。      これは条約で禁止されていた事であり、更には日本からの物品に対して二重

に課税するなどした。そのため満鉄を始め民間企業は疲弊し満州は混乱した。      そのため日本政府は遼寧省政府張作霖政府)や南京政府蒋介石政府)に

対して再三再四交渉を持ちかけたが音沙汰無しであった。そのため南京、済      南事件の再発を防ぎ特に日本人への迫害を防ぐためには、張作霖奉天軍の

         排除が必要となり、1928.6.4関東軍は、満州へ引上げる途上の張作霖の特別

列車を爆破して殺害を成功させた。(張作霖爆殺事件)。張作霖爆殺事件や      満州事変は、日本側の一方的な軍事行動と思われがちであるが、実態は中国

側から執拗な妨害を受けた日本人日本企業守るため自衛手段の発揮 あった。


 

1927.3.24 南京に入城した北伐軍は、突如として一部が領事館や居留地などを襲撃し、      暴行・略奪・破壊などを行った。日本人を含む欧米人10人余が虐殺されてい

る。日本領事夫人は大勢に陵辱されている。これは北伐軍に潜んでいた共産      分子により先導されたものであった。これを南京事件(1927)という。

 

領事館や一般企業・住宅を襲われた英米は揚子江に停泊していた軍艦から南京城内に艦砲射撃を行ったが、一緒に居た日本駆逐艦は、英米に誘われたものの反撃は一切しなかった。これは軟弱な幣原外交の結果であった。何もしないと見た中国人は、その10日後の43日に漢口で日本租界を襲っている。

 

この南京事件で艦砲射撃をしなかった日本軍の行動に、イギリスは疑問を持ち「日本は裏で支那とつるんでいるのではないか」と疑問を持ち、その後イギリスは自国が支那ナショナリズムの的になってしまうことを恐れて、支那との融和を図り反対に支那の矛先を日本に向けるように画策していった。そのため尚更日本は支那の内戦に巻き込まれてゆくことになる。

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1921-30/1927_nankin_jiken.html

 

幣原外交は究極の過ちであった。幣原喜重郎は死んでも詫び切れない。事ほど左様に無防備で何もしない、出来ないと言うことは、反対に相手から簡単に攻め込まれて侵略されてしまうと言うこと通ずるのである。

 

1928.5.3 山東省の済南の日本居留地が国民革命軍に襲われ、日本人が陵辱、虐殺、暴 行、略奪された。老荘男女16人が惨殺されている。これを済南事件と言う。      (2008.2.15の中国虚妄のプロパガンダ4/5を参照のこと。) 


 

その後も満州では、日本に対しての弾圧が続く。その内容を「支那事変の真相」より引用しよう。

(続く)