戦後70年談話はヒストリーで!(37)

1928.12.29

張作霖爆殺後、後を継いだ息子の張学良蒋介石の国民政府に降伏し、満州 も含めて蒋介石が中国を統一する。これを易幟(えきし)と言い張作霖政府の五色旗から蒋介石の晴天白日満地紅旗(旗)に変えて降伏することを言う。そして満鉄包囲線を敷設し更にはそれと結ぶ港湾施設まで建設して満鉄枯渇政策を実行した。更には間島(豆満江沿いの中国領で朝鮮人が多数 入植)での朝鮮人(当時は日本人であった)弾圧が激化し政治問題となる間島問題)。

 

1930.5.30

朝鮮民族に対する虐殺・暴行・略奪が行われた間島暴動が発生する。

 

1931.6.27

大興安嶺の立ち入り禁止区域を密偵していた陸軍参謀中村大尉一行4人が張 学良配下の軍に拘束され銃殺される(中村大尉殺害事件)。そして遺体は証拠隠滅のため焼却・遺棄される事件が発生する。中村大尉一行は「蒙古地方旅行許可」のある通行証を発行されていたが、張学良配下の軍はそれを無視して多額の所持金などを略奪して、一行を殺害してしまった。これを調査し た関東軍は、中国正規軍により日本軍人が不法に虐殺されたことに対して、激高し中国に対して厳重調査を要求した。しかし中国側は、日本人の捏造、 宣伝であるなどと回答し、更に突っ込まれると中村大尉らが逃亡せんとしたために背後から射殺せざるを得ず、虐殺などではないなどと虚偽の説明に終 始した。このため日中間の緊張は極度高まり、ことの重大性を中国側が認識したのは柳条湖事件の起こる当日であった。

 

2008.1.30中国毒餃子事件が報道された。この時も中国は公安省と国家品質監督検査検疫総局のNO.2が、2008.2.28に会見して、「餃子へのメタミドホスの混入は、中国では起こりえないこと」だと、中国国営中央テレビが生放送している中で、言い放っている。あたかも「メタミドホスは日本で混入した」と思わせていた。後ほどこの発言は全くの虚言であることが判明しているのだが、あたかも日本に非があるように宣伝戦を展開していた。

今回(2013.2.5夜小野寺防衛相発表)の日本海上自衛隊護衛艦「ゆうだち」に、中国海軍フリゲート艦が2013.1.30火器管制レーダーを照射した事件も、日本の捏造だと虚言を弄して、日本を反対に非難している。ただどうにもならないと見て、監視用のレーダーでないか、などと言い訳している。レーダーを照射したことは認めているようだが、これなども中国の常套手段の嘘っぱちを言い触らしているのである。

 

だから中村大尉虐殺事件に対する中国の対応に、日本の関東軍は怒りが極大化して、怒髪天を衝いたのである。そのため柳条湖事件を起こさざるを得なかったのであり、非は100%中国側にあったのである。

 

1931.7.2

長春満鉄の終点地)の北、万宝山に荒地に長春県承認の10年間貸借契約 で入植していた朝鮮人入植者たちが作成した水路を、中国官憲と武装した中国農民らにより破壊され、暴行を受けた朝鮮人ら百名単位の死亡者が発生する。(万宝山事件、死傷者無しとの資料もある。)このため朝鮮各地では中国人排斥運動が起こり、多数の中国人が犠牲となっている。(朝鮮排華事件

 

1931.9.18

奉天(藩陽)郊外の柳条湖付近で、1931.9.1810:20頃、南満州鉄道の線路 が爆破される事件が発生する。今まで述べてきたように中国側の数々の日本人に対する妨害、暴行、虐殺などのために、関東軍張学良の東北軍の排除を計画せざるを得なかった。その口実作りが、この柳条湖事件である。

 

柳条湖事件から満州事変


この柳条湖事件から満州占領までを満州事変と呼ぶ。

 

(1)関東軍の自衛のための派兵

 

 この鉄道爆破を張学良の仕業と発表し、満州平定の軍事行動に移ったのである。


1931(S6).9.1907:00陸軍省は「関東軍今回の行動は全部至当なり」と発言にもあるように容認している。このとき関東軍の兵力は1万人程度であり、片や張学良軍は約45万人であったので、兵力増強はどうしても必要であった。しかし9.2110:00の閣議では朝鮮軍の満州派遣問題は承認が得られなかった。日本側はあくまでも不拡大であったが満州の安寧の回復も急務であった。そのため朝鮮軍司令官は独断で混成第39旅団に越境を命じ、9.21,1:20pm部隊は国境を越え関東軍の指揮下に入った。

 

1931.9.22、それまでは政府は越境を認めなかったが結局は閣議で事後承認されることになった。

 

今まで詳細に述べた日本居留民と日本人関係事業への暴行、略奪、虐殺行為に対しては、何らかの防御策を嵩じなけれはならない状況であったことは確かであった。そのため陸軍省では、これらの事を、関東軍の自衛行為と強調していたことは至極妥当なことであった。

 

しかしアメリカからは戦線不拡大の要求があり、外務省も陸軍省と協議し戦線を奉天(藩陽)で止めるべきことで了解した。しかし10.8には関東軍の進攻は早く遼東湾の北西岸錦州爆撃が開始されてしまう。錦州には、張学良の主力部隊が駐屯しており、日本人や日本の権益を守るためにはこの張学良の兵力を駆逐する必要があったことも確かであった。

 

(2)地方独立政権への支援

 

そして関東軍は、満州の各地でその実力者達に独立政権を作らせていった。その統合体が満州を安全に統治する政治体制となるものを指向するものであった。そしてまた清朝最後の皇帝であった宣統帝愛新覚羅溥儀の希求するものでもあった。

 

(3)共産軍の上海派

 

また1932.1には上海市郊外に3個師団からなる3万人中国第十九路軍が進出してきた。更には1.9の中国の新聞「民国日報」に日本を侮辱する内容の記事が載り、更には1.18, 4:00 pmには日蓮宗の日本人僧侶と信者5人が中国人暴徒に襲撃され、僧侶1名が死亡、他2名が重傷を負う事件が発生している。これにより上海共同租界各国英米日伊、仏)は、1.27には分担して警護することを決めた。

 

日本の兵力は陸戦1000人のみであったので1.28,9:30頃軍艦より1700名を上陸させて、それでも2700ばかりとしていた。中国軍1.28午後に攻撃を仕掛けそれが一昼夜続く。この中国第十九路軍は、蒋介石南京政府に属するものではなく、共産党に属し満州での戦闘に便乗して日本軍に混乱を引き起こさんがために戦闘を仕掛けてきたものと見られる。

 

中国十九路軍の一方的な攻撃に対して防戦一方であったが、これに対して日本海軍は1.31に陸戦隊7000人、内地からは2.2に金沢第9師団と久留米から混成第24旅団を派遣を決定した。これに対して国民党軍は、2.16張治中を指揮官とする第5軍を上海に派遣してきた。

 

(4)第一次上海事変の勃発

 

日本側は、中国軍が共同租界から20km撤退するよう要求するが拒否してきたため、1932.2.20日本軍は総攻撃を開始する。戦闘は激烈を極めたが、3.1に日本軍が国民党軍の背後に上陸すると、中国第十九路軍は撤退を始めた。日本軍は3.3に戦闘中止を宣言した。

 

36日間の戦闘で、日本側の戦死者769名、負傷2322名。中国側損害は14,326名であった。

中国側住民の死者6080人、負傷2000人、行方不明10,400人と発表された。

 

日中、英米仏伊の六カ国による停戦交渉の結果、5.5上海停戦協定が成立する。これが中国共産党が起こした第一次上海事変1932.1.28~3.3である。同じく中国共産党・張治中が起こした第二次上海事変1937.8.13~10.26は、当ブログ2012.5.28,~の「第2次上海事変」を参照願う。

 

そして満州では1932.2.5にはハルビンを占領し、満州の主要都市は殆どが日本軍の支配下におかれることとなった。

(続く)