(5)満州国の建国
上海での共産軍の攻撃を撃退し、満州では全土を占領した日本は、満州の安寧を維持強固なものにするために、満州の統合を図った。即ち満州国の建国である。満州国の元首には、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀が就任する。
満州国の承認に慎重であった犬養敦首相は五一五事件で、反乱部隊に暗殺されてしまう。
結局、1932.6.14に衆議院本会議にて、満州国承認決議案が満場一致で可決される。
満州国建国には関東軍の関与が相当あったものであったが、一概にそれが侵略であったと言うには、一方的な判断である。先に述べたように、自衛・独立運動であった。
ソ連コミンテルンと中国共産党による日本人と日本軍への迫害と挑発、南京・済南事件に続き、満州への共産党勢力の浸透による日本人への迫害と日本権益の侵害、そして張学良による中村大尉殺害事件の発生や日本人であった朝鮮人への迫害などが積み重なり、関東軍が切羽詰って自衛行動に出たものが、柳条湖事件であり満州事変だったのである。
要は張作霖・張学良親子による軍閥的搾取と、先に述べているように中国内地の混乱による流民の流入による混乱の極致からの満州の開放が必要となったものでもある。もともと中華帝国にとっては満州は夷テキの国であり、漢民族の国ではなかった。そのために万里の長城を築き、万里の長城の内側(南側)を関内と言い天下と呼んでいたものである。もともと満州は関外であり、中国のものではなかったのである。
だから918事変として2012.9.18前後に中国で大荒れした反日デモは、全くの的外れのものと言わざるを得ない。これは江沢民に始まる中国共産党の反日教育により植えつけられた、誤った歴史認識による反日デモなのである。それをよいことに胡錦濤は尖閣諸島へ侵略を開始したのである。習近平は更に輪をかけて侵略をけし掛けている。
今年(2013年)7月28日任期満了の参議院の選挙での自民党の圧勝が無いと中国による尖閣諸島への侵略は極度にエスカレートすることになろう。日本国民もこの点に注目して、参院選挙の投票には熟慮してもらいたいものである。 』
この後リットン調査団が満州に入り日本軍の行動などを調査することとなり、リットン調査団報告(1932.3~1932.6)となる。この報告は一概に日本に不利なものでもなかったが、その後の国際連盟での討議ではより一層日本に不利な内容が採択されることになり、日本が国際連盟を脱退することになってゆく。
このリットン調査団報告に対して、日本は真摯に対応して、日本に有利になるような議決となるように、立ち回らなければならなかったのであろう。しかしながら満州における中国共産党とコミンテルンの日本人及び日本利権への弾圧は、一層激しくなるばかりであった。
その状況を示す資料も、小生のブログ「支那事変の真相」より引用する。
『
満州事変の原因http://www.history.gr.jp/~showa/214.html
前述したごとくソ連は東支鉄道及び満州の北西地域を完全に影響下におさめ、中国共産党を支援して東満州に共産軍の遊撃区を構築して反日闘争を展開した。(満州における鉄道関連地図及び共産化状況地図)
これにより、大正中期より東満州は共産パルチザン(共産党員によるテロ組織、非正規軍の武装暴力組織のこと)による暴動の巷(ちまた)となり、昭和6(1931)年まで108件にも及ぶ事件が起こった。
その中でも特に大きな事件は、昭和5(1930)年に間島省で日本人44名が殺害された暴動事件である。
その結果、満州の日本人社会においては、次は中国共産党の正規軍による反日暴動が起こるのではないかという危機感が高まることとなった。
一方満州の支配者であった張作霖(ちょうさくりん)は、アメリカの力を背景にしながらこの地域における排日運動を推進した。
満鉄への経営妨害、炭鉱など鉱山の採掘権の否認、鉱物の輸送制限、付属地の買収禁止、その他農林水産業への妨害、二重課税などの不当課税による商業活動の妨害、日本人や朝鮮人への立ち退き命令などが行われ、これらによって日本人居留民の生活は危殆(きたい)に瀕(ひん)した。
これらの多くの排日事件の中で、日中間の外交交渉の俎上(そじょう)に上がった「日支懸案」件数は昭和2年に31件、3年に37件、4年に77件、5年に95件の合計240件に及んだ。
これに在満朝鮮人(当時日本国籍)への迫害や殺害事件などを加えると、事変発生当時満州をめぐる日本と中国との間の懸案は、実に300件を上回った(「現代史資料11」より)。
満州事変直後には満州では日本人居留民が生活出来ないまでになっていた。
満州事変は以上のようなおびただしい排日事件が繰り返されたのちに、これを解決すべく起こった事変であった。
130219(12)
満州地域における我が国の被害事件一覧
大正8(1919)年より昭和6(1931)年(満州事変)まで
項 目 |
件 数 |
事件の内容 |
尼港事件 |
大正9(1920)年に、樺太対岸の尼港(ニコライエフスク)にいた日本人居留民、日本陸軍守備隊、日本海軍通信隊、計7百数十名がロシア人、朝鮮人、中国人から成る4千名の共産パルチザンによって、凌辱(りょうじょく)暴行を受けたうえ虐殺された事件。(共産パルチザンとは、コミンテルンの指令に基づく極左暴力革命集団のことである。) |
|
共産パルチザン事件 |
108件 |
108件の共産パルチザン事件の中でも最も苛烈(かれつ)を極めた事件は、劉少奇統制下の満州省委員会の指令によって、昭和5(1930)年5月30日に東満の間島省で起こった暴動である。 |
発砲・武力衝突事件 |
25件 |
中村大尉虐殺事件(昭和6年)では大尉ほか3名が虐殺され、これが満州事変の大きな要因となった。 |
鉄道運行妨害 |
171件 |
信号所を襲撃して列車の運行を妨害する事件が多発した。 |
鉄道貨物盗難被害 |
189件 |
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鉄道用品盗難被害 |
22件 |
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鉄道電線被害 |
28件 |
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昭和4年と5年の合計 |
410件 |
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関東庁警察で扱った事故数 |
1294件 |
昭和5(1930)年に起こった満鉄の各駅ごとの事件事故数の集計。(別地図参照) |
営業権の否認・制限 |
炭鉱・石炭山等の採掘権の否認、炭鉱輸送制限、満鉄の枕木購入制限、不属地土地買収禁止、日本人農場への鉄道敷設、林業妨害、電気営業の妨害、借款(しゃっかん)の踏み倒し、買収土地の返還命令、日貨排斥、沿岸貿易の禁止、日本漁船の一掃、公入札の否定(例えば、鉄道車両建造請負について、満鉄と三菱が公入札で1・2位を占めていたが、これをチェコのスコダ工場より購入した。)) |
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日本企業への不当課税 |
400件 |
(1)大連港の二重課税(一度支那の港に入港された商品が他の港に入港するときは再び課税されない措置がとられていたが、日本商品が大量に入る大連港だけは二重課税されるようになった)、(2)それまで課税対象でなかった日本人経営の炭鉱への課税、(3)日本商品に限定して地方税の課税、が行われた結果、日本商品の価格が高騰し、日本企業は経営困難に陥った。 |
日本人居留民への圧迫 |
日本人殺害、日本人凌辱、日本人農場放火、デマ宣伝、その他旅券の不発行などの圧迫を受けた。 |
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排日教育政策 |
教科書に「日本民族は生来侵略を好む民族である。・・・」(新中華歴史課本高級用第4冊)などの言葉が記され、意図的に反日意識を煽(あお)るものが氾濫した。 |
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朝鮮人圧迫 |
80件 |
暴行虐殺事件など多数発生。 |
以上のような反日状況の中で、一部の関東軍軍人が、排日状況を取り締まる事なく、むしろそれを助長させてきた張作霖に敵意を抱いて、昭和3(1928)年に、張作霖を爆殺する事件を起こした。(張作霖と張学良の写真)
これは日本政府の関与しない無謀な行動であったが、張作霖を排除することが排日状況を打開する道だと確信しての行動だと事件の責任者が弁明しているように、満州は日本人居住者にとってはきわめて厳しい環境となっていたのである。
これは張作霖が満州の治安維持と経済回復に努力せず、北京にいて満州を顧(かえり)みなかったことに1つの原因があると言えよう。
満州では事態改善に有効な方策は一向にとられず、張作霖の後継者の張学良が国民党と連合して反日闘争を展開するようになったため、状況はますます悪化し満州は事実上の戦争状態に陥(おちい)ったのである。
そのような中で起こったのが満州事変であった。
言わば満州事変は、満州に平和と秩序を回復することをめざした防衛措置であったのである。
昭和7(1932)年に内田外相が「当時日本の当局者は、機会あるごとに彼(張作霖)に忠告を与え、保境安民の必要を説きたるも顧みられず、その子張学良に至りては・・・・・遂に南方政府に通じて満州より日本を駆逐せんとするの暴挙を行うに至れり。これ昨年(1931年)9月18日の事変を惹起(じゃっき)せる真因(しんいん)なり。」と述べているのは、満州の事情を如実(にょじつ)に物語っている。
※ 南満州鉄道およびその付属地における被害一覧(被害件数1436件)(PDFファイル) http://www.history.gr.jp/~showa/214_01.pdf
このように反日運動、排日暴動の激しさをご理解いただけたことと思う。当然日本としては日本人の生命、財産を守る行動に出ざるを得なかったことは、当然のことである。更に次の説明を読んでほしい。満州での当時の厳しい状況が、簡潔にまとめられている。(2013.02.22,NO.14~を参照の事)
(続く)