戦後70年談話はヒストリーで!(39)

満州事変(1931年)

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1931-40/1931_manshu_jihen.html

 

以上見てきたようにおびただしい排日事件が繰り返されている満州では、南京事件(1927)済南事件(1928)なども再発させないように、平和と秩序を回復させなければならなかったのであった。しかも遼寧省政府(張作霖、張学良)は、アメリカなどの支援を受けて日本排斥の激しさを増していったので、日本としては満州の安寧は得られないと決断して、自国権益を守るためにやむを得ず防衛措置を取ったものであった(とリットン調査団報告では報告されていたのだ)。それが満州事変と呼ばれるものの真相である。


 

だから「戦後70年談話」の第3には、「満州事変中国共産党による満州における正当な日本権益や日本人への迫害を除去し、平和を回復させるための日本の自衛手段であった」と言う事を盛り込むことである。

日本が侵略したと言う中国の9.18事変は、中国による全くの捏造であり、反対に中国による日本への侵略であった、と声高らかに述べなくてはならない。


これが「戦後70年談話」の第三の必須事項である。このように中国は日本が満州を侵略したように吹聴しているが、話は全く逆で中国が、日本の満州における正当な権利を、悉く迫害していったことに対する日本の防衛手段だったのである。詳しくは小生のブログ「支那事変の真相」(2013.2.1~2013.3.6)を参照の事。

 

だから「痛切な反省もお詫び」も必要ないのである。あるのは中国からの日本に対する「痛切な反省とお詫び」なのである。判ったか、習近平よ。

 

日中戦争の原因となった「第2次上海事変」も、元はと言えば、ドイツに支援された中国共産党が日本租界地を、不意に襲ってきたから起こったものなのである。

中国共産党・張治中が起こした第2次上海事変1937.8.13~10.26)は、当ブログ2012.5.28~の「第2次上海事変」(http://blog.goo.ne.jp/atlas_centaur/d/20120528)を参照願う。)

 

(11)日中戦争中国共産党が惹き起こしたものだ。日本の侵略ではない。

 

日中戦争の原因となった第2次上海事変については、小生のブログを参照して頂こうと思ったが、「馬鹿頓馬歴史学74人」の話が出てきたので、このブログでも2012.5.28~の「第2次上海事変」を引用しながら簡単に言及しておく。

 

1928.5.3山東省の済南の日本居留地か中国の国民革命軍に襲われ、多数の 日本人が陵辱、虐殺、暴行、略奪された事件は、前にも述べたのでご存知のことと思う。これも蒋介石の国民革命軍に巣食っていた共産党によって惹き起こされたものであるが、それよりも更に残虐な日本居留民への虐殺事件が、起こっている。

 

それが1937.7.29通州事件である。


そしてその12日後の1937(S12)89夕刻に第2次上海事件の直接のきっかけとなった 日本軍・上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉とお付の運転手の斉藤與蔵一等水兵が、上海共同租界の国際的自由通行路である記念通り(モニュメントロード)を走行中において、国保安隊多数に囲まれて機銃掃射を受けて殺された事件が起きている。

 

これらはすべてコミンテルンの指令を受けた中国共産党によって惹き起こされたものである。その理由は、蒋介石によって痛めつけられていた中国共産軍は、何とかして日本軍を中国の内戦に引っ張り込んで蒋介石軍と戦わせたかったのである。そして蒋介石軍の矛先を、何が何でも中国共産軍から日本軍に向けさせたかったのである。そのための手練手管が上記の日本人や日本軍への迫害であった。これらのことを念頭に、第2次上海事変に入ろう。

 

1937(S12)89夕刻、日本軍・上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉とお付の運転手の斉藤與蔵一等水兵が、上海共同租界の国際的自由通行路である記念通り(モニュメントロード)を走行中において、国保安隊多数に囲まれて機銃掃射を受けて殺された。この事件を契機に、812未明に中国(国民党)正規軍が上海共同租界の日本人区域を包囲し更に上海各地区に増派してきた。このため日本領事は国際委員会を再招集して中国軍の撤退を要求したが、中国側は聞き入れなかった。日本側は自重を重ねていたが、中国側の好戦的な態度を受けて同日8/12夕刻550分に初めて東京の軍令部へ陸軍の派兵を要請する電報を打った。しかし動員には時間が掛かるため、戦闘を拡大しない方針を堅持した。

 

しかしながら813日午前10時半頃には、中国軍は日本軍陣地に機銃掃射を開始した。日本は戦闘が上海の国際区域に拡大しないように防衛的戦術に限定し、中国軍が飛来し艦船に爆弾を投下しても対空砲火は撃たなかった。

 

しかし813日午後9時頃からは、国保安隊が海軍上海特別陸戦隊を包囲し、攻撃を開始し戦闘状態に突入した。蒋介石中国軍31千名日本人区域を包囲しているのに対し、日本軍は上海陸戦隊の2,200を中心に、各地区からの寄せ集めの海軍特別陸戦隊4,000あまりであった。このため日本海軍は劣勢を補うために渡洋爆撃を発令し、8/14,15,16と台湾や九州から合計延べ74機の96陸攻を飛ばし中国各地の飛行場を攻撃したが、9機が未帰還、3機が不時着・大破、65名の搭乗員が犠牲となった。それなりの爆撃の効果は挙げたが予想以上の損害を蒙っている。

 

・・・・・

 

しかしながら814には、日本艦艇を狙い再度中国軍機の空襲が開始された。しかしこの爆撃により、中国軍機の落とした爆弾がフランス租界に着弾し、民間人3,000人の死傷者を出すに至った。同時に上海租界の日本海軍陸戦隊も攻撃されたが、激戦の末撃退している。

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これを受け、日本側もいつまでも「不拡大方針」を続けることは出来ないと判断し、815日未明に「支那軍よう懲、南京政府の反省を促す(膺懲、こらしめる)との声明を発表し、3師団11師団に動員命令が下り上海派遣軍が編成され、81819と上海に到着しようやく6,300ほどの戦力となった。しかし蒋介石軍は更に3個師団が追加され7万人あまりの戦力となっていた。

 

Wikipediaの「張治中」によれば、張治中は当時「南京上海防衛隊司令」であったが815に記者発表を行い、日本軍艦から上海へ艦砲射撃が行われ中国人への攻撃が開始されたとの偽情報を出している。そのため反日感情が高まり、蒋介石も攻撃命令を出さざるを得なくなった。しかも張治中は、その後の蒋介石の攻撃中止命令も無視して戦闘を拡大していった。このとき日本軍の増援部隊は未着で艦砲射撃は未だ行われていない。日本軍の艦砲射撃は、その増援部隊の上陸を支援するために、823にはじめて実施されたものである。


819以降も中国軍の攻撃は激しさを増し止むことを知らなかったが、我が海軍特別陸戦隊は10倍以上の敵を相手に、大損害を出しながらも日本租界を死守した。それと言うのもこのわずか3週間前の7/29には、北京郊外の通州で日本居留民地区が、蒋介石軍と結託した中国暴民が襲われ略奪・暴行・陵辱・虐殺されていたからである。邦人230名が虐殺された「通州事件」である。

(続く)