8月21日には蒋介石はソビエト連邦と中ソ不可侵条約を締結した。ソ連は直ちに航空機500機ほどと操縦士、教官を送り込んで蒋介石を支援した。このためソ連が中国にとっての最大の武器供給国であり続けた、とWikipediaにも記述されている。そしてソ連は中国が日本を戦争に引きずり込んだことをこの上なく喜んだと言う。反対に蒋介石は上海での戦火の拡大に落胆し、張治中を共産党員でソ連スパイではないかと疑い9月には司令官から罷免している。
8月23日には、上海派遣軍の2個師団が日本艦船の艦砲射撃の支援の下、上海北部沿岸に上陸に成功。しかしながら蒋介石軍はドイツから支給された優秀な火器とドイツ軍事顧問団支援によるトーチカに立て篭もり、頑強に抵抗した。そして日本軍の数倍の勢力の蒋介石軍は、隙あらばと海軍特別陸戦隊を攻め立てた。
このため8月30日には海軍は、再度陸軍部隊の増派を要請せざるを得なかった。
9月9日には、台湾守備隊、第9師団、第13師団、第101師団に動員命令が下された。
そして日本軍は甚大な損害を蒙りながらも9月上旬までには、上海租界の日本人区域前面からは中国軍を駆逐することが出来たが、日本居留民の安全は、まだまだ完全なものではなかった。
Wikipediaによれば、9月末までの損害は次の通りであった。
第3師団、 死者1,080名、戦傷者3,589名、合計4,669名
第11師団、 死者1,560名、戦傷者3,980名、合計5,540名
一般的に言って師団の勢力は約25,000名と言われている。初期の海軍上海特別陸戦隊の6,300名程度戦力から9月末までにはどれ程の勢力となっていったかは詳(つまび)らかではないが、陸軍の第3師団と第11師団の何名が上海に派遣されたかはわからないが、仮に25,000名の総てが派遣されたとすると、合わせて50,000名の戦力のうち10,209名の戦死傷者を出す大損害となっている。2割を超える損害を出したことになる。
ドイツ軍事顧問団の指揮の下強固な陣地を構築し、更にはチェコ製機関銃やドイツ製の火器を装備した蒋介石軍は、頑強に攻撃してきたため日本軍は思うように蒋介石軍を撃破できなかった。
10月9日には、3個師団を第10軍として杭州湾から上陸させることを決め、第10軍は11月5日に上陸に成功している。上海の南60km程の地点である。
10月10日、上海派遣軍はいよいよドイツの作ったゼークトラインの攻撃を開始する。そして2日間の激戦の末、各所でゼークトラインを突破する。
ハンス・フォン・ゼークトはドイツ陸軍上級大将にまで上り詰めた人物で、第1次大戦敗戦後のドイツ軍備縮小の条約をかいくぐり主にロシアと協定を結びロシア国内でドイツの軍需工場を稼動させた人物である。退役後は、1933年から1935年の3年間にわたり蒋介石の軍事顧問を務め、上海周辺に「ゼークトライン」と称する防御陣地を構築している。ゼークトの帰国後は、共に軍事顧問を務めていたアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン中将がドイツ軍事顧問団団長となり、中国軍や軍需産業の育成に従事する。1937年の第2次上海事変の作戦計画を作成し実行したのは、この人物である。なぜ蒋介石がこんなことを始めたかは別途記述するが、実質的には国民党軍に潜んでいた共産党員によって引き起こされたものであった。
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10月26日には、上海近郷の要衝・大場鎮(Dachang)の攻略に成功する。この大場鎮を攻略できたことで上海から蒋介石軍をほぼ駆逐することが出来た。上海租界の日本人の安全が、ほぼ確保出来た事になる。
しかし中国軍は蘇州河の南岸に陣地を構築し、日本軍はなかなかそのトーチカを落とすことが出来なかった。
11月5日、先にも述べたが杭州湾岸に第10軍が上陸すると蘇州河南岸の中国軍は、退路を立たれる恐れから大きく動揺し、11月9日に一斉退却を始めた。
この退却に際しては、中国軍は略奪と破壊を大々的に行っている。そのため日本側は退却が始まることを予測できたのである。中国側の敗残兵は避難民に紛れてフランス租界に入り込み、便衣兵となり放火、略奪を行ったので、フランス租界の警官との銃撃戦があちこちで発生していた。しかしながら中国軍の撤退により上海に居住する全民間居留民の安全が確保されることとなり、上海の英字紙は日本軍に感謝する論評を載せている。
大山勇夫海軍中尉の虐殺(1937・S12年8月9日)に先立つこと12日前の1937年7月29日には、北京市の東12kmの通州(現北京市通州区北部)において、冀(き)東防共自治政府保安隊(中国人部隊)3,000人が、日本居留民420名への襲撃を開始し、230名余が虐殺されている。女性達はすべからく強姦され虐殺され身体を切り裂かれており、更に子供達は針金で鼻輪を通され、その上襲われた喫茶店では女給たちの生首がテーブル上にきれいに並べられていた。これを通州事件と言う。
そのため日本海軍陸戦隊は第二、第三の通州事件や済南事件を引き起こされてはならないと、必死に奮戦し日本居留民を守ったのである。
しかしながら今思えば、8月12日の時点で、日本政府は日本租界の日本居留民を守るためには、
即座に大々的に増派をして蒋介石軍を徹底的に叩いておくべきであった。そうすればこのような日中戦争の泥沼にそれほど引き込まれなかったものと思われる。
ちなみに盧溝橋事件は、大山勇夫海軍中尉虐殺事件の1ヵ月程前の1937(S12)年7月7日に発生している。盧溝橋事件を始め通州事件、第2次上海事変などは、いずれも中国コミンテルン(共産党国際部、Communist Internationalコミュニストインターナショナル)による指令に基いて蒋介石軍に紛れていた共産党員が引き起こしたものである。ソ連コミンテルンの意図は、中国コミンテルンをして中国に戦乱を引き起こしその過程で蒋介石国民党を共産党から日本軍へ向わせて日本軍を中国の内乱に巻き込み、中国全体を共産化させ、共産党の存在価値を中国内に知らしめ、且つ日本本土にも混乱を起こさせて共産化させようとするものであった。この第2次上海事変は、もともと蒋介石が意図したものではなかったのである。
事実日本で暗躍したドイツ人「リヒャルト・ゾルゲ」は、ソ連コミンテルンの手先であった。ゾルゲは1930(S5)年にソ連諜報部(赤軍参謀本部第4局)から上海に派遣され、1933(S8)年9月に日本に入国し、ソ連のためにスパイ活動を行い、日本を極東から引き離して対米戦争へと導く手立てをしていた。上海ではドイツ軍事顧問団とも接触し、蒋介石のために情報提供を行った。蒋介石国民党内には、すでに中国コミンテルンの共産党員が沢山もぐり込んでいたのである。第2次上海事変を引き起こした蒋介石軍の司令官「張治中」も実質的な共産党員であった。
そして日本にも、ゾルゲと行動を共にした共産主義者、「尾崎秀実(ほつみ)」がいた。
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その後「尾崎秀実(ほつみ)」は、1934(S9)年10月に東京朝日に移り、1936年に中国問題の専門家として太平洋問題調査会に参加する。1938(S13)年7月に東京朝日を退社して、第1次近衛内閣の嘱託となり1939年1月の内閣総辞職までその職に留まる。尾崎は嘱託となると同時に近衛主宰の政治勉強会「朝飯会」のメンバーとなりこの関係は第3次近衛内閣の1941(S10)年8月まで3年間も続いた。その間尾崎は、中国の各事変に対して不拡大方針を堅持する政府に対して、事あるごとに拡大させよと強力に主張し、和平工作に反対している。
尾崎は自分を「完全な共産主義者」であると認め、その最終目的は「全世界での共産主義革命を遂行する」ことであり、逮捕後の取調べでは「世界共産主義革命遂行上のもっとも重要な柱であるソ連を日本帝国主義から守ることである」と、供述していると言う。そのため日本が蒋介石などと和平を結ばれ安定してもらっては(ソ連にとっても、中国共産党にとっても)困ることになるので、盛んに中国での戦争拡大を近衛内閣に吹き込んでいたのである。ゾルゲも尾崎も当然だか、その後死刑に処せられている。
このように中国内でも日本国内でもコミンテルンの手先が暗躍していたのであり、この第2次上海事変も国民党内に巣食っていた実質共産党員である「張治中」によって引き起こされたものであった。
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(続く)