続・次世代エコカー・本命は?(44)

しかしいったんことが起これば、スズキの動きは速かった。

 

2009.12.9資本提携を発表してから、2年後の2011.9.9のスズキとVWの会談は決裂に終わる。そして2011.9.12の取締役会でVWとの業務・資本提携の解消を決議し、スズキ株の売却を求めて交渉に入るがVWは一向に承知しない。その結果2011.11.24スズキは、VWとの契約解除と株式返還を求めて国際仲裁裁判所に提訴したのである。

 

20143、仲裁裁判が結審の時を迎えても判決は下されなかった。VW牛歩戦術であった。遅れに遅れた仲裁裁判の結果がスズキに届いたのは、更に1年半近くも過ぎた2015.8.29であった。鈴木修日本自動車工業会の主催するゴルフ場で、そのことを知らされた。

 

判決内容は以下の通り、スズキの完全勝訴であった。

 

一 、包括契約2012518日付で有効に解除されたことを認める。
一 、VWは直ちに保有するスズキ株式を合理的な方法で、スズキまたはスズキの指定する第三者に処分する。
一 、VWの主張するスズキの契約違反の一部を認め、この契約違反に基づく損害の有無、損害額は引き続き仲裁で審議をする。

(「スズキの強運、宿敵の失脚を経てVWに逆転勝訴 2016/01/21 http://bizgate.nikkei.co.jp/article/94991512.html」による。)

 

このスズキ勝訴の判決(2015.8.29)を待つかのように、2015.9.18アメリカEPAVWの排ガス不正を公表したのである。だからスズキの強運なのである。

 

しかしスズキの会社としての存続をかけた舞台の本番はこれからである、鈴木修はどのようにして生き残りをかけてゆくのか。

 

2015.6.30鈴木修は社長職を長男で副社長の俊宏に譲っている。

 

鈴木修が会長兼CEO最高経営責任者)、長男の鈴木俊宏が社長兼COO最高執行責任者)と言う布陣である。

 

 

トヨタとスズキの緊急会見から
「二大創業家」が迎えた転機を読む

【第8回】 201573日 佃 義夫 [佃モビリティ総研代表]

会長CEOに鈴木修氏(右)、社長COOに鈴木俊宏氏が就任し、新体制がスタートしたスズキ
Photo:REUTERS/AFLO
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期せずして相次いだ緊急会見
トヨタとスズキに何が起きた?

6月、自動車業界で緊急会見が相次いだ。

1つは、630スズキ社長交代会見、もう1つはそれを遡る619に行なわれた豊田章男トヨタ社長の謝罪会見だ。

 その会見内容は全く別ものだが、奇しくも両社は創業家をトップに置く日本の代表的な自動車メーカーである。トヨタの豊田家、スズキの鈴木家、共に織機(織物機械)から自動車メーカーへと業態を変えた企業としての歴史も似ている。

 創業家をトップに戴くトヨタとスズキに、今何が起きているのか。両社はこれからどこへ向かうのか。今回は、それぞれのトップによる緊急会見から、「二大創業家」が迎えた転機を読み解こう。

 まずはスズキだが、今回、自動車業界最長老の鈴木修会長兼社長が、長男である鈴木俊宏副社長の社長昇格を決めて、記者会見に臨んだ。俊宏氏は、スズキの前身となる鈴木式織機製作所の創業者、鈴木道雄氏からの創業家出身者となる。

鈴木修氏は、言わずと知れたスズキのワンマン経営者。1978年の社長就任来、実に37年に及んでトップを務め、「俺は浜松の中小企業のおやじ」と言いながら日本の軽自動車をここまで育て上げた。インド市場での高シェア・高収益を確立させた経営力は、つとに有名である。

 スズキは、株主総会の最盛日だった626日に浜松で株主総会を行った後、30日に臨時取締役会を開き、スズキ創業家の鈴木俊宏副社長(修氏の長男)の社長昇格を決めた。会長CEO鈴木修社長COO鈴木俊宏氏という新体制で、東京のホテルにて会見に臨んだ。今回のスズキの社長交代に関しては、メディア関係者は30日午後、スズキから突然の記者会見案内が送付されて社長交代を知ったのである。

 ただ裏側から見ると、自他ともに認めるスズキのワンマン・鈴木修氏の胸三寸で長男俊宏氏へ社長が禅譲されるのは、時間の問題とされていた側面もある。鈴木創業家は女系だ。二代目社長の鈴木俊三氏が先代の娘婿で、その俊三氏に見込まれ娘婿としてスズキ入りしたのが鈴木修会長である。

修氏が銀行マンから転身してスズキに入社したのが1958。その20年後の1978四代目社長に就任したが、当時はまだ48歳の俊英だった。一代前の三代目社長は鈴木実次郎氏で鈴木家の縁戚にあたるが、実は修氏は社長就任前の専務時代から軽自動車の排ガス規制問題で奔走する日々を送り、実質的にスズキを仕切っていた。

 すなわち、スズキのリーダーとしては実質40年にわたってここまでスズキを育て上げたのは、二代目社長の娘婿である鈴木修なのだ。

「俺は、実質三代目だと思っている。排ガス規制問題で軽自動車をやっていけるか瀬戸際を何とかし、どこかで一番を取りたいとインドやハンガリーに出た。GMともスズキの良さを活かした提携関係を継続させた」

 修氏は、かつて筆者の取材にこう述懐してくれたこともある。社長就任時のスズキの売上高は1700億円だったが、それを3兆円企業にまで飛躍させたのは、鈴木修「意地と勘ピューター」経営が原点にある。

問われ続けた「ポスト鈴木修
なるべくして社長になった俊宏氏

 一方で、創業家へ婿入りして鈴木修21女に恵まれた。女系で娘婿による経営を続けてきた鈴木家にとって待望の男子であり、長男は岳父俊三氏の一字を取って俊宏と名付けられた。それが今回社長に就任した俊宏氏である。いわば、俊宏氏はなるべくして社長になったのだ。今回の父子鷹会見でも、俊宏新社長は「いつかはやらなければいけないと覚悟していた」と、胸の内を示した。

すでに過去、鈴木修氏の長期政権の中で、後継が誰になるのかが問われたことがあった。特に2000年に修氏が、社長を技術系の戸田氏に譲り、自らは会長となった頃だ。当時、筆者は鈴木修会長に「本当の後継をどうするんですか?」と聞いたことがあったが、「つなぎの後だな」と応えてくれたことを思い出す。

 当時、娘婿の小野浩孝氏を当時の通産省からスズキ入りさせ、長男の俊宏氏をデンソーからスズキ入りさせた修氏が、いずれこの2人を軸に「ポスト修体制」を期待していたことは確かだろう。

 しかし、通産省でもいずれは次官候補とまで言われた娘婿の小野氏が取締役在任中に急逝し、戸田氏の次に社長に選んだ津田氏も健康上の理由により短期間で退任。結果、修氏は2008年に会長兼社長という体制で現在までトップを継続することになった。社長就任直後に軽自動車の新たな方向性を定めたアルトの投入、ビッグ1のGMとの提携、インド・ハンガリー進出といった成果は修流ワンマン経営の最たるものだが、GMの経営破綻による提携解消に代わり、独VWとの包括提携に合意したのが2009だった。

 だが、VWとの提携関係はGMと違って難航した。VWの覇権主義を発端として両社の関係はぎくしゃくし、実を結べないままスズキは提携解消を申し入れた。これが国際仲裁に持ち込まれていまだに決着がつかない状況だ。問題はVWのスズキへの出資分19.9%だが、両社痛み分けでの決着が近い気配もある。

「仲裁結果が出るのを待って社長禅譲を考えていたが、待ち切れず踏ん切りをつけた」と、今回の突然の社長禅譲劇の背景を修氏は説明する。

 もちろん、VW問題の影響もあるとはいえ、修氏の胸中は今年に入って決まっていたのではなかろうか。それというのも、今年1月で修氏は85を迎えたからだ。もちろん、修氏自身は相変わらず元気そのものだ。先日も、マレーシアでのプロトンとの提携調印で、マハティール元首相と並んで調印式に臨んだ翌早朝に成田空港に降り立ち、その日の夕刻には軽自動車団体総会パーティで乾杯の挨拶を行うという強行軍をやってのけた。ユーモア溢れる挨拶で来場者の笑顔を誘い、精力的に関係者と談笑していた光景を見るにつけ、並みの85歳ではない。
(続く)