共産主義(者・党)は日本を滅ぼす(2)

ソ連は盧溝橋事件の翌月の1937.8に中国国民政府と不可侵条約を結び、国民政府を大規模に支援している。それは日本軍が中国で泥沼に陥るように図り、ソ連に目が向かないように仕向けるものであった。

 

そして1938.10.1の「プロパガンダ担当者会議」で、「資本主義国の中では、発展する国もあれば、発展に遅れる国が存在する。そのため同時にこれらの国を共産化することは困難である。遅れた国から共産化していくことは可能ではないか。」と言うものである。

 

世界同時革命論ではなく、気が熟すように仕向けて、そんな国から徐々に武力で共産化してゆくと言う方針を確認したのである。

 

スターリンは、1928年の第一次五か年計画、1932年からの第二次五か年計画を経て、軍事大国化していった。実力を付けたソ連は資本主義国間の対立を更に激化させ、戦争を煽るべく行動を開始したのである。

 

その一つ満州でのノモンハン事件である。

 

満州理の南、蒙古領が恐竜の頭のように満州側に突き出ている部分の額あたりの満州側にノモンハンはある。元をただせばそこのモンゴルと満州国の国境紛争であったが、1939.5(S14)満州国国境警備隊とモンゴル軍の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍が兵力を派遣して大規模な戦闘となったものであった。この戦闘で日本は大敗を喫している(と言われているが実際はソ連側の方が損害は多かったが、多勢に無勢で日本が敗退することになったようだ)。

 

ソ連軍は大量の火砲と装甲車両の機械化狙撃大隊を派遣したが、関東軍にはそれほどの火砲などの装備はなかった。そして後半になるとソ連の航空戦力も日本軍を圧倒するようになり、そのため緒戦こそは優勢であったが、各所で壊滅的な打撃を受け1939.9.16に停戦となった。

 

これは関東軍の第二十三師団長の小松原道太郎中将ソ連のエージェントであったことから、小松原中将とソ連が結託して関東軍・日本軍を挑発して大規模な戦闘に導きいれて、日本軍を潰走させたものとされている。これは日本を挑発して軍事的な打撃を与えることによって、ソ連軍の実力侮りがたしと評価させ、北進論南進論に変えさせるものであった。日本の国内政治でも近衛内閣の顧問や閣僚となったソ連のスパイであった尾崎秀実風見章らの共産主義者による支那事変の拡大・南進論への政策誘導が進められた。更にアメリカでも日本を対米戦に陥れるために、「雪作戦」が進行していた。ソ連のエージェントであった財務省高官の「ハリー・ホワイト」が、日米交渉を日米戦争へと導いていた。このため日本はアメリカと戦うことになってしまったのである。この件は別途言及したい。

 

二つ目独ソ不可侵条約の締結であった。

 

これに対して欧州では、ノモンハンの停戦一か月前の1939.8.23独ソ不可侵条約が締結されている。これには英仏などはびっくり仰天したものであったが、この条約には秘密議定書がついており、ドイツがポーランドに侵攻し、ソ連ポーランドの残り、バルト三国フィンランドルーマニアに侵攻することが了解されていた。

 

ドイツのポーランド侵攻は、直ちに英仏の対独宣戦布告を引き出している。これこそが、スターリンが目論んだものであった。資本主義国家間の戦争で、両陣営がお互いに弱め合う事は、スターリンにとっては願ってもないことであった。

 

そしてノモンハン停戦の翌日の1939.9.17に、ロシアはポーランドウクライナ人とベルラーシ人を保護するためにと、ポーランドに侵攻した。ポーランドファシスト国家なので滅亡して共産主義となればこの上ないことであるとのスターリンの言葉が、側近の日記に記されている。

 

ここで注目しなければならないことは、ノモンハン事件独ソ不可侵条約は密接に関連している、と言う事である。

 

日本とアメリカの戦争ドイツと英仏の戦争は、ともにスターリンが仕掛けたドラマである、と言う事である。これこそレーニンの基準原則に沿ったものであった。資本主義国同士で戦争をさせ、両者を疲弊させて最後に革命を起こさせて資本主義国家を共産主義国家に変えてゆく、と言う目論見であったが、結局はドイツのソ連侵攻で、ソ連は第二次大戦参加国中、最大の犠牲をこうむる羽目となったのである。しかし日本では共産主義者に煽られて対米戦争でぼろ負けし、アメリカに原爆二発も落とされ、ソ連には満州をはじめ北方領土を蹂躙されてしまったのであった。しかし日本での共産革命を阻止できたことは是とすべきであろう。

 

この福井義高氏の論考は次の文章で終わっている。

スターリンの世界革命戦略は結局、画竜点睛を欠く結果となり、漁夫の利を得たのは、他国に比べると圧倒的に少ない犠牲で、ソ連と並んでもう一つの超大国となったアメリカであった。大戦で極度に疲弊したソ連は、その戦後を最初から大きなハンディを背負った状態でスタートせざるを得なかった。

結局、東西冷戦を経て最終的に勝ち残ったのは、ソ連共産主義ではなく、アメリカ資本主義と言うもう一つのグローバリズムであった。

 

 

さて次に、日本に実質的な最後通牒となった「ハル・ノート」は、財務長官モーゲンソーの副官であった「ハリー・デクスター・ホワイト」によって作られたものである。そのハリー・ホワイトについて少し述べよう。これはアメリカが如何に日本を対米戦争に引きずり込んて行ったか、を明らかにするものである。ハリー・ホワイトもコミンテルンスパイであった。

 

ハリー・ホワイトについては、小生の当ブログ「靖国神社に参拝しよう」('08.9.1~'09.9.28)に、それなりに述べているのでそれを引用しよう。

(続く)