続・次世代エコカー・本命は?(72)

八重樫武久氏は、当時プリウスの開発責任者であった内山田竹志(第2開発センターチーフエンジニア)と同期で、東富士研究所でエンジン制御や環境技術を担当していた。

 

当時トヨタHV車の量産化に四苦八苦していた。95年末当時トヨタ経営トップの奥田社長からは、97年中に販売せよ、と当初予定から2年も前出しを迫られていた。

 

結局この奥田の無茶ぶりに押し切られて、HV車は97年中に販売することになってしまった。そこで混乱の真っただ中のHV技術陣の中に、呼び込まれたのが八重樫武久であった。

 

八重樫をはじめ、内山田、そしてトヨタ技術部の部・課長から係長・一般社員達の血の滲むような苦難と努力の2年間が始まった。その甲斐あって19971210、「21世紀に間に合いました。」とのキャッチコピーで、世界初量産型ハイブリット車プリウスの販売が始まったのであった。

 

その立役者の一人が八重樫武久氏であった。その後TSHⅡなどのハイブリッドシステム全般の開発に従事し、その功績からすると役員に列せられてもおかしくなかったと感じられるが、理事で2005年にトヨタを退職している。

 

ハイブリッド車プリウスは、トヨタをここまで巨大にした立役者的な技術であった。ハイブリッドなくしては、今のトヨタはなかったものと思われる。トヨタの歴史を振り返ってみて、豊田喜一郎の自動車開発の他には技術的にトヨタトヨタたらしめている技術は、ハイブリッド技術(とFCV)の他にはないであろう。FCVはこれから伸びる技術であり先行きが楽しみであるが、現在トヨタトヨタ足らしめているのはこのハイブリッド技術である、と小生は思っている。

 

しかしHVがいくら燃費によいと言っても、これからは限りなく燃費ゼロ、すなわち化石燃料を使わない車が希求される時代となろう。それを見越してトヨタFCV「ミライ」を開発したのであった。

 

 

 

ハイブリッド車誕生 驚異の燃費、原動力は執念

2015/11/15 3:30
ニュースソース
日本経済新聞 電子版

 日本車の躍進に拍車がかかった1990年代後半、米欧自動車大手はなおも「技術は自分たちが上」と信じていた。そんな中、世界を驚かせたのはガソリンエンジンとモーターを巧みに使い分け、燃費効率を飛躍的に高めたトヨタ自動車ハイブリッド車プリウス」だった。開発の裏には、70年代の排ガス規制で敗北感を味わった技術者たちの執念があった。

動かないプリウス

 「車はできたが、実は49日間全く動かなかった」。今年の東京モーターショーを前にした1014日。トヨタ会長の内山田竹志は環境戦略の記者会見で、97年に発売された初代プリウスの思い出話を披露した。その背後には、年内に発売する予定の4代目プリウスの画像が映し出されていた。

 プリウスが初めて姿を見せたのは95年秋東京モーターショー開発責任者が内山田だった。だが「ハイブリッド車でいこう」と役員が決めたのはその数カ月前。時間との闘いの中、「動かないプリウス」は参考出品車としてそのままモーターショーに出された。

 その後2年が本当の生みの苦しみだった。ハイブリッド車といっても世界中のどの自動車メーカーも商品化したことがない。ガソリンエンジンとモーターをどうかみ合わせればいいか。高圧電流をどう制御するか。すべてが初めてだった。

 ハイブリッド方式を選んだ当時副社長の和田明広(現アイシン精機顧問)は「色々な方式を試したが、結局それしかなかった。燃費をとにかくガソリン車の2倍にしたかった」と話す。

 燃費が2倍。それには3つの意味があった。1つは過去に置かれた現実だ。70年代以降、トヨタは排ガス規制に悩まされ続けていた。世界で当時最も厳しい環境規制だった米大気浄化法(マスキー法)が成立したのが70年。ホンダの低公害エンジン「CVCC」に先を越され、他社を後追いする悪循環が続いた。

 

 最悪なのが国内だった。75年、76年、78年と3段階で来た「日本版マスキー法」対応では当時社長の故・豊田英二が国会に呼ばれ、進捗の遅れを非難された。和田など当時の技術者は「あれほど悔しかった日々はない」と異口同音に言う。

 2つ目はカリフォルニア州93年に制定したZEV(無公害車)法(規制は98年から)だ。マスキー法対応を乗り越えたトヨタだったが、無公害車を一定割合で販売することを義務づけた、より厳しい新規制への対応が待ち構えていた。

 そして3つ目温暖化問題だ。日本は9712月に京都で開かれた第3回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP3)の議長国に決まり、「積極的に動け」「21世紀を方向づける車がほしい」との声が社長以上の上層部から強まった。

97年中に出せ」

 和田も内山田もそうした声に抗しきれなくなる。「できるとしても9899年だな」。だが当時社長の奥田碩は「97年中に出せ」と言い、後に引かなかった。COPの年だった。

 96年1月の技術者会議。部、課長クラスから「絶対無理です」との声が飛んだ。和田は「じゃあ、これより重要な案件があるのか」と声を荒らげた。結局、97年を目指すことになったが、不満の声はくすぶった。

 2月。静岡の東富士研究所で長年環境技術を担当した内山田の同期、八重樫武久(元トヨタ理事)がハイブリッドシステム開発のまとめ役として異動してきた。70年代の排ガス対応の拠点が東富士。八重樫も悔しさを味わった一人だった。

電気自動車の蓄積

 なぜプリウスは2年でできたのか。八重樫は「電気自動車の蓄積があった」と話す。ZEV規制案が浮上した90年代初め、トヨタ電気自動車開発を始めていたインバーター、パワー半導体、モーター。ハイブリッド車に必要な技術はすでに「内製できるところまで来ていた」という。

 八重樫がもう1つ指摘するのは技術者の力だ。トヨタの技術開発部門はまださほど大組織化しておらず、「技術者一人ひとりが全体を見渡して、当然のように幅広い仕事をこなした時代だった」と振り返る。

 9712プリウスが無事発売されると、国内外から賛否両論が巻き起こった。ある欧州自動車メーカーのトップは「あんな複雑なシステムがなぜ動くのか」と驚いた。また別のあるトップは「あれはやり過ぎだ。主流に残る技術じゃない」と言った。だが、98年1月の米デトロイト自動車ショーは多くの自動車メーカーが「ハイブリッド車」のコンセプトカーを出展、追随する姿勢をみせた。

 プリウスの技術はその後、「カローラ」などの主力車にも載せられ、ハイブリッド車は現在、トヨタの世界販売の約12%を担っている。内山田は「50年にはガソリンエンジンだけで動く車が限りなくゼロになる」と予測する。各国の環境規制を考えるとエンジン単体での技術革新は限界もある。トヨタの車には近い将来、ハイブリッド技術が必ず載る時代が来る。

 電気自動車燃料電池の時代もやがて来る。世界で初めて商品化にこぎ着けたのはいずれもトヨタのほか日本の自動車メーカーだ。だが本格的な普及には課題も多い。先頭ランナーで居続けようとしたら、技術者たちに立ち止まっている余裕はない。(敬称略)

 編集委員 中山淳史が担当しました。

http://www.nikkei.com/article/DGXLZO94024890V11C15A1TZG000/?df=3

(続く)