日本近代化の流れ(1)

小生のブログは、2007.4.30に「慰安婦問題について」をGOOブログに載せたのが始まりで、2016.10.3に完結した「続・次世代エコカー・本命は!」まで78話となっている。一応10年近く続いたことになっている。正確には9年6か月であるが、それなりによく続いたと今更ながら感慨深い物がある。これも健康に恵まれたからのことで、誠に天地神明に感謝したい気持である。

 

と言う事でこのブログを紐解いて、小生なりに日本の簡単な近代化の流れを辿(たど)ってみたいと思っている。

 

思い浮かぶキーワードは、

 

明治維新日清戦争日露戦争、日韓合邦、第一次世界大戦満州事変、上海事変支那事変、大東亜戦争などであるが、これらのキーワードを眺めると、当時後進国であった日本が、当時の欧米の先進国からいじめられながらも如何にしてそれらの障害を払いのけながら、近代化していったかがわかる気がするものである。

 

そしてこれらのキーワードに関する事柄は、すべて小生のこのブログに載せられている。したがって、小生のブログを紐解きながら、日本の近代化の流れを整理していこうと思っている。

  

(1)明治維新

さて日本の近代化の象徴は、1868年の明治維新であることは、みなご存知の事と思う。その明治維新に至るまでの道のりは、それほど単純でスムーズに進んでいったものではないことも、ご承知のことと思う。

 

そこで徳川時代から明治時代に移行する際の主だった出来事を、ここで少しおさらいしてみたい。明治以前の時代は当然、徳川幕府の時代である。

 

 

徳川家康は秀吉の死後(1598年・慶長3年)、1600年・慶長5年関ケ原の合戦に勝利し覇権を手にする。そして1603年・慶長8年に征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開き各藩を従え天下を支配することとなる。そして1614年・慶長19年の大坂冬の陣1615夏の陣で、目の上の瘤であった豊臣氏を滅ぼして、幕藩体制を盤石なものとする。

 

さて徳川家康がオランダに朱印状を授けたのは、1609年・慶長14年の事である。そして1641年・寛永18年には、長崎の出島に、それまで平戸にあったオランダ商館を移転させている。

 

1637年・寛永14年に島原の乱が起こる。過重な年貢と飢饉の被害が重なり、一揆が勃発する。島原はキリシタン大名有馬晴信の所領で、天草もキリシタン大名小西行長の所領であったためカトリック信者もたくさんいたので、キリシタン弾圧に対する反発もあり、キリシタンも一揆に参加した。そのため宗教がらみとみられているが、そうではなくて圧政に対する民衆の反乱がその原因であった側面が強いものであった。

 

しかし幕府はキリスト教が幕府を揺るがすもの考えて、特にカトリックの布教に熱心であったポルトガルを追放することになる。オランダプロテスタントであり布教よりも貿易に重きを置いていたため、幕府もオランダとの交易は許していた。1639年・寛永16年ポルトガルが追放されると、オランダに対して出島に移るよう強制した。1633年・寛永10年から始まった鎖国令はこのポルトガル追放の第5次鎖国で更に強化されることになった。

 

そして徳川幕府は、オランダ、中国、朝鮮とだけ交易を許可して、長い鎖国の夢にまどろむことになる。殿中松乃廊下での赤穂藩主・浅野内匠頭の刃傷事件は、1701421日・元禄14年3月14日の、平和が百年ほど続いた元禄ののどかな世の中の出来事であった。この間ヨーロッパでは1789年・寛政元年フランス革命~1794年・寛政6年)、1803年・享和3年ナポレオン戦争~1815年・文化12年)と続き、封建社会国民国家へと脱皮していく。

 

そんな中で日本では、徳川幕府を驚かす事件が起きる。

 

1808.10.4イギリス軍艦・フェートン号事件である。

(続く)