日本近代化の流れ(5)

そして明治天皇ご臨席のもと、新体制での総裁、議定、参与の3職会議が開催されて、徳川慶喜の処遇で激論が交わされることになるが、薩摩の西郷たちが慶喜を暗殺するとの噂を聞き及んだ議定の土佐藩山内容堂達がおとなしくなり、結局、徳川慶喜の「辞官納地」(慶喜の内大臣辞任と幕府領の放棄)が決定した。

 

この「王政復古の大号令」は、岩倉具視らの討幕派の揺るぎない背水の陣による覚悟によるクーデターであった。

 

この薩摩藩の暗躍に幕府強硬派が乗せられ、慶喜は薩摩征伐を名目に事実上京都封鎖を目的に出兵し、1868年1月27日(慶応4年1月3日)鳥羽・伏見の戦いに突入する。当初幕府側が優勢であったが、薩長側が「錦の御旗」を掲げると幕府軍は大いに動揺し総崩れとなる。五千の新政府軍に対して、旧幕府軍は一万五千名と優勢であったが、狭い街道での戦いで兵力を生かしきれず、やがて津藩の新政府軍側への寝返りにより旧幕府軍は総崩れとなる。そして慶喜に対して追討令が発せられ、慶喜は「朝敵」としての汚名を着せられてしまう。

 

追討令が出たことを聞くと、徳川慶喜は慶応4年1月8日密か大阪城を脱し、大阪湾に停泊中の幕府軍艦、開陽丸で江戸に退却してしまう。

 

この後戦いの舞台は、上野、北越会津、函館などと続いてゆく。

慶応4年、明治元年の干支が戊辰だったことから、これらの戦争を戊辰戦争と言う名で呼ばれている。(1868年1月27日~1869年6月27日箱館戦争

 

戊辰戦争会津若松で激戦が続く最中1868年10月23日(慶応4年9月8日)明治天皇一世一元の詔(みことのり)を発し、慶応4年を改め明治元年とする。そして天皇一代に元号一つと言う一世一元の制を定めた。明治改元の詔とも言う。

 

 

第15代将軍徳川慶喜による「大政奉還(1867.11.19)岩倉具視らの「王政復古のクーデター(1868.1.3)そして明治天皇による「王政復古の大号令」によって新政府へと「御一新」を果たした明治新政府の方針は、天皇親政を基本とし、欧米列強の諸外国に追いつくための改革を実行してゆくことであった。

 

その明治政府の基本方針は、

 

1868年4月6日(明治元年3月14日)五箇条の御誓文で具体的に明文化されることになる。欧米列強より遅れた体制から如何に列強と伍する実力を身につけてゆくか、その考え方を力強く表現している。

 

そしてその目的を達するための具体策として、「富国強兵」「殖産興業」が広く叫ばれることになる。

 

またここで注意しなければならないことは、諸外国特にイギリスやフランス、アメリカなどからの直接的な介入が皆無であったことであった。ここで本格的に軍事介入されていたならば、日本はひとたまりもなかったことであろう。諸外国の直接的な介入がなかったと言う事は、それだけ日本の幕府や朝廷の統治能力が認められていたと言う事なのであろう。うかつに介入すれば、日本から手ひどい反撃を受けることが、認識されていたことの証拠である。江戸幕府は言うに及ばず、薩摩・長州などの各藩が、常に外国からの侵略に対して防備を固めて準備していたからに他ならない。

 

幕末の混乱期を、諸外国からの軍事力による侵略を防ぎ、進んだ技術・文化をうまく取り入れて自分のものとし、封建制度からうまく近代化へと脱皮出来たという事実には、もっと注目されてもよいし、ほこられるべきことなのである。その点、徳川三百年の安定した時代に培われた文化や民度向上の意義は大きい。

 

振り返れば、この幕末から明治新政府の諸活動こそが、諸外国からの侵略をいかに防ぐかの活動そのものであった。小生はその活動の根源は、うまくは言えないが、戦国時代から続く「サムライ魂」にあるのではないかと思っている。この日本の「武士道・サムライ魂」こそが、明治維新を成就させたものではないと、考えているものである。

(続く)