そうは言っても西洋の学問・技術の導入は、日本にとって急務であった。幕府は1862.4.11(文久2年3月13日)オランダに、榎本武揚、津田真道、西周ら16名を派遣している。
長州藩は1863年6月27日(文久3年5月12日)には、後日長州5傑と言われる5人をイギリス留学に派遣している。当時は江戸幕府に対して密航となっている。五傑とは、井上聞多(外交)、遠藤謹助(造幣)、山尾庸三(工学)、伊藤俊輔(内閣)、野村弥吉(鉄道)の5人であり、夫々の専門分野での「父」とされている。
薩摩藩でも薩英戦争を機に1865年(元治2年3月22日)、ロンドンへ15名(総勢19名)を派遣している。薩摩はその後1866年(慶応2年)の第1次、1867年(慶応3年)第2次とアメリカへも留学生を派遣している。
又維新後となるが、明治4年11月12日(1871年12月23日)横浜港から出発した岩倉具視使節団に同行する形で5人の少女たち留学生が乗船していた。
賊軍とされた会津藩国家老の末娘の山川さき(11才9ヵ月、後の大山巌の妻となる捨松、娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つのみと母が改名)、佐渡奉行属役・益田孝義四女の増田しげこ(永井しげ9才8ヵ月)、下総国佐倉藩家臣で外国奉行の通訳を務めた津田仙の次女の津田うめ(6才11ヵ月)と上田てい(16才)、吉益りょう(14才)の5人でした。
Wikipediaによれば、思春期を過ぎていた上田ていと吉益りょうはホームシックと病気などでその年のうちに帰国するが、他の3人は幼少であったこともあり夫々別々のアメリカ人家庭に寄宿し無理なく順応していく。
山川さき 1860.3.16生、11才9ヵ月、1882年(M15)帰国、大山巌の妻として外交に活躍、日本赤十字の基礎作り、女子英学塾支援
永井しげ 1862.4.18生、9才8ヵ月、1881年(M14)帰国、瓜生外吉海軍大将の妻、日本の音楽教育に尽力、女子高等師範学校(お茶の水大学)、東京音楽学校教師
津田うめ 1862.12.31生、6才11ヵ月、1882年(M15)帰国、女子英学塾(現津田塾大学)を設立。大山捨松や瓜生しげなども設立・運営を支援
山川さきと津田うめは11年間、永井しげは10年間のアメリカ留学生活を過ごし無事帰国している。そしてそれぞれ専門を生かして、明治日本の近代化に尽くしている。彼女たちの活躍はまさにサムライそのものであり、まことに頭が下がる思いであるが、いかに明治期の日本が「坂の上の雲」を、老若男女を問わずに目指していたかを如実に物語るものであった。だから「坂の上の雲」をつかむことが出来たものと思われる。
さて「五箇条の御誓文」と呼ばれているには、それなりの訳がある。即ち明治天皇自らが我々祖先の御霊にお誓いあそばされ、近代国家の礎(いしずえ)を築こうとされたものなのである。
それは天神地祇(てんじんちぎ)御誓祭と言う儀式によって、天皇自らがご皇室に由来するすべての神々にお誓い申し上げて、示されたものであった。天神とは天津神のことで高天原や高天原から天下った神々の総称であり、地祇とは国津神のことで地に現れた神々の総称である。
その誓った内容が「五箇条の御誓文」である。国民も此の考えに基づいて心を合わせて努力せよ、と言っているのである。それを下記に示す。
一 広く会議を興し万機公論に決すべし
一 上下心を一にし盛んに経綸(国家を治めること)を行うべし
一 官武一途庶民に至るまで各その志を遂げ人身をして倦(う)まざらしめん事を要す
一 旧来の陋習(ろうしゅう、悪い慣わし)を破り天地の公動に基づくべし
一 智識を世界に求め大いに皇基(皇室の基、天皇が国を治める力)を振起(盛んにする)
すべし
そしてその後、公卿・諸侯が1人ずつ神位と玉座に拝礼し、奉答書に署名したのである。
奉答書とは群臣が天皇の意思に従うことを表明した文書であり、
「天皇の意志は遠大であり、誠に感銘に耐えない。今日の急務と永世の基礎は、これに他ならない。われ等臣下は謹んで天皇の意向を承り、死を誓い、勤勉に従事し、願わくは天皇を安心させよう。」と言う意味のことが書かれているという。
(続く)