日本近代化の流れ(12)

6明治18年1885年、明治19年1886年の第1次、第2次露朝密約事件(不凍港確保狙うロシアが秘密裏に朝鮮と軍事密約を交わす。このため英国は日本に接近、日英同盟の元となる。

 

話はアフガニスタンに飛ぶ。1830年代ロシアは南下政策を進め、アフガニスタンに目を付ける。これに対してインドを植民地とするイギリスが反応する。1838年イギリスはアフガニスタンに派兵して

1842年に降伏させる。これが第一次アフガン戦争である。

 

また1868年から1876年にかけて、ロシア中央アジアへ進出してくる。現在のカザフスタンウズベキスタンの地域を、併合することになる。そのためイギリスは187811月、アフガニスタンに宣戦を布告する。結局1881アフガニスタンの王族を相手に、イギリスの保護国となることを認めさせる。この結果アフガニスタンパキスタンの国境が画定する。これが第二次アフガン戦争である。

 

結局ロシアはアフガニスタンへの進出の夢はかなわなかったのである。

 

更には1877.4~1878.3には、ロシアはトルコと露土戦争を戦っている。この戦いに勝利したロシアは、サン・ステファノ条約(1878.3.3)でエーゲ海への出口を確保することになる。これを恐れたイギリスオーストリア・ハンガリー帝国はこの条約に反対した。結局1878/6/13~7/13ベルリン会議

ロシアエーゲ海への出口を失い、ロシアはバルカン半島での南下政策は徒労に帰すことになったのである。

 

そのためロシア南下政策矛先は必然的に極東に向かう。それが満州であり、朝鮮半島だったのである。

 

1885年と1886年にロシアは朝鮮と密約をを交わし、朝鮮を軍事的に保護しようとしたが、朝鮮を属国とする清国の袁世凱の知るところとなり破綻する。これを第1次、第2次露朝密約事件である。

 

イギリスはこのロシアの動きに神経を尖らせ、日本に接近することになる(1894年(M27年)日英通商航海条約)。日本としても朝鮮の動きに神経を高ぶらせることになる。

(続く)